九月一日 (雨)

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九月一日 (雨)

 今日は一日中雨だった。まったく止む気配のない、しとしとと降りつづけた。どういう雨なんだろう。こぬか雨は春先の雨だって。秋は秋雨だってさ。つまんないね、秋の長雨って聞くけれど、しとしとと降るんだろうか? ま、いいや。  今日の雨? 別にイヤだとは思わなかった。ただ、悲しかった。 *あゝ己(おれ)は何(ど)うしても信じられない。たゞ、考へて、考へて、考へて、考へるだけだ。二郎、何(ど)うか己を信じられるようにしてくれ。*                (*夏目漱石著「行人」より)  ぼくは彼女が好きだ、すごく好きだ。  京、会社の先輩から聞いた。彼女が、ぼくのことを馬鹿にしている、と。「真面目なのネ」。別れ際に呟いた彼女の言葉に、引っかかるものがあったけど、別にそれ程深くは考えなかった。ぼく自身がそう思っていたから。だけど、彼女の言う真面目と、ぼくのそれとは、違う意味のものだった。要するに、臆病者という、軽蔑の意味が、言葉の裏に潜んでいた。  何と言うことはない、映画館でそして帰り道にでも、手を握らなかったこと。別れ際にキスをしなかったからだという。「坊ちゃんですね」。不意にこの言葉が頭を過(よぎ)った。誰だっけ? ごめんごめん、忘れるはずがないじゃないか。あの女性歌手のことばだった。  先輩は言う。今の女性にとってのキスは、軽いものだと。そしてまた二十歳の年齢でキスの経験が無いのは、逆に不健康だ、と。「ガキじゃないんだから、一発かまさなきゃな」。お尻を強く叩かれた。  ぼくは宣言する、ぼくは男だ!  君は、わかってくれるよね。あの夜、キスじゃなきくて、軽いノリでするキスじゃなくて、本当の接吻をしたかった。だけど、ほんのちょっとの勇気がなかっただけだ。だって、付き合い始めてまだ日が浅いんだ。気心の知れていない相手に、そんなことは。いや、気持ちは通じ合っていたんだよ。  そうか、やっぱり。勇気が足りなかったってことだ。草食系とか肉食系ということじゃなくて。いつもそうなんだ、一歩が踏み出せないんだ。嫌われたくない、その思いが、いつもぼくを停めてしまう。ぼくというかごの中に、ぼくを閉じ込めてしまうんだ。
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