二月十日  (雪)

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二月十日  (雪)

 冷たい雪だった。風も冷たかった。けれども、外の方がまだ暖かい。  わかっているよ、君の言いたいのは。あれほど君に約束したのに、結局戻って来てしまった。わずか四十日ちょっとだけど、耐えられなくなったんだ。仕方ないんだ……  チコと別れたのは、正月休みの後だった。その後、一ヶ月余り我慢した。耐えたんだ。じっくりと、お互いの事を考えつづけたけれど、どうしても駄目なんだ。いや、決して嫌いになったんじゃない。今でもすごく好きだし、会いたい。だけど、駄目なんだ。耐えられないんだ。ぼくが子供なのかもしれない。ぼくのエゴかもしれない。  今は、自分自身が身の毛もよだつほど嫌いだ。これほどの嫌悪感は初めてだ。今夜は、君に全部話すつもりだ。わかっている。所詮君は日記であり、ぼくの一方的な告白であり、単なる愚痴にしか過ぎないってことは。そうとわかってても……  あの夜チコは、ぼくをベッドに寝かせてくれた。チコは、ごろ寝でいいって聞かない。慣れてるからって。ぼくは、興奮気味だったこともあるけど、何度も起きたよ。チコは、どういうのかな、スヤスヤと眠っていた。習性なんだってさ。 「いつもは夜行バスの中で眠るの、宿泊代も馬鹿にならないから」  朝、七時頃に目が覚めた。チコはもう起きていた。「おはよう!」って、笑いかけてくれた。とってもすがすがしそうだった。チコの用意してくれた朝食、パンとコーヒーだったけど、すごくおいしかった。  久しぶりのことだよ、二人で朝食を摂るのは。お母さんと一緒に食べたことが思い出された。朝に色々と注意をされたり指示を出されたりして、うっとおしいって思ったことがあったけれど、一人の食事があんなにわびしいものだとは思いもしなかった。牛乳とパンと、目玉焼き。それだけを用意するのでも、あんなに面倒なことだとは思いもしなかった。結局のところ菓子パンになり、最近では朝食抜きになっちゃった。  食事の後、すぐにアパートに戻った。管理人のおばさんに書き置きを預けて、チコのアパートにすぐ戻った。嫌がるチコと一緒に大掃除をしたよ。自分のアパートなんか、一度もやらなかったんだけどね。  夕方近くにスーパーでの買い物に出かけて、「弟さんと一緒の買い物? 仲がいいのね」だって。チコなんか調子に乗って、ぼくの腕をしっかりと。ぼくはただ顔を赤くして黙り込むだけだったよ。 外に出てからは、三つになったレジ袋をぼくに持たせて、チコはぼくの回りをぐるぐる回って「うん。しっかり持ちなさい」だって。  アパートに戻ったら食事を作るのはわたしなんだから、というのがチコの言い分なんだ。 「久しぶりに作るから、味の保証はないわよ」って言うだけのことはあって、確かにおいしくはなかった。けど、楽しかった。  でもやっぱり、だんだん気が重くなってきた。「そんなに不味かった?」って、ぼくの顔をのぞきこんできたよ。で、チコに話した。毎年、おふくろの迎えで実家で新年を過ごしているんだって。悲しそうな顔をしてくれるかと思ったけど、そうでもなかった。ショック! 「今年は帰らない! もう、親離れする!」と、宣言した。嬉しそうな顔をしてくれたけど、すぐに「やっぱり駄目、帰りなさい」。 渋々にアパートに戻った。今年は帰らない! って言うつもりで。道々、その理由を考えたけれど、なかなか妙案がでない。結局、先輩と一緒に初詣に行くということにした。でもいざアパートの灯りを見たら、何だか部屋に行くのが怖くなった。結局、そのままチコのアパートに戻ることにした。おふくろに会ったら、絶対帰ることになるような気がしたんだ。おふくろの涙に弱いんだよ、ぼくは。 いざアパートの灯りを見たら、 「今年の正月は、帰れないかもしれない。今夜も戻れない」と、書き置きを預けたことだしさ。  ところが、チコが居ないんだ。鍵をね、もらってはいるんだけど、今日は置いて出ちゃった。戻ってくるつもりだったし、チコもここに居るって言うから。寒いし、足も疲れたしで、ドアの前にしゃみがみこんでた。いま考えれば、管理人さんに鍵をもらって、中で待っていれば良かったよ。従弟です、と紹介してくれていたから。どの位待ったかな、とにかく長く感じた。とにかく寒かった。ぼくのアパートに戻ろうかとも考えたけど、お母さんに連れ戻されるだろうしさ。じっと我慢した。今にして思えば、あの時に帰っていれば今のぼくじゃないはずだ。けどあの時は、いま離れたら一生駄目になりそうに思えたんだ。  暗い顔をして歩いてくるチコを見たとき、ボロボロ涙がこぼれた。母親にはぐれて泣いている子供みたいに。母親が見つけてくれると、子供って、どうしてだかもっと泣き出すじゃないか。あの時のぼくがそうだった。止まらないんだ、涙が。  チコも、「ごめんね、ごめんね」って、一緒に泣き出した。しっかりと抱いてくれるチコの胸で泣きじゃくった。しゃくりながら、 「おふくろが来てるからアパートに戻れない」って言ったんだ。  チコは、「わかったわ。だからもう泣かないで」そう言って、背中をさすってくれた。あの時チコが泣いたことを、ぼくの涙につられてのものだとばかり思っていたけど、ホントは違っていた。勿論、多少はあるだろうけれど、引き金だったんだ。あの長距離電話の時に気が付くべきだった。駄目な男だよ、ホントに。チコは、仕事をすっぽかしてしまったんだ。僕に会いたかったから? うん、少しはそれもあるかも……。  本当の理由は、後でわかった。  でその夜、優しいチコの言葉に促されて、チコを抱いた。というより、抱いてもらった。暖かいチコの胸の中で、気持ちよく眠った。おふくろの胸で眠ったような感じだ。えっ? 何もないよ。ただ、眠っただけだよ、ほんとに。おっぱいには触ったけどね。  大晦日の夜、というより元旦の早朝だった、チコに男にしてもらったのは。ますます、チコが好きになった。だけど、そのことが。二日の朝だった。急にドアを激しく叩く音がして、チコの顔が強張った。隠れようとしたぼくに、そのままでと目で言うと、チコはドアの外に出た。何だか異様な雰囲気だった。 「やっぱりか!」  激しい声に、ぼく、体が硬直した。低いチコの声は聞こえなかったけど、断片的に相手の声は聞こえてきた。耳を塞ぎたくなる話だった。興行主との約束事を破ったとか、その為に、今年からの興業に支障をきたす、とか。  チコがそのことを話してくれたのは、三日の夜だった。その日は、一人になりたいというチコの希望通りに、アパートに戻ったんだ。お母さんからの置き手紙があった。  辛かったよ、チコの話は。どうしようもないやりきれなさ、憤り、そんなものが渦巻いた。全てがそうではないらしいけれど、興行主の力というものは凄いものらしい。どんな無理難題も聞かされるらしい。といって、事務所としても要求全てを飲むわけにはいかない。  その要求で一番多いのが、一夜妻らしい。といって、これから売り出す歌手にそんなことはさせられない。そこで、代役が必要らしい。それが、チコの役回りだった。  ショックだった。天地がひっくり返る、そんな感じだった。何も言えなかった。だけど、許せなかった。興行主も、事務所も、そしてチコも。どうして愛情もないのに……それが仕事だなんて、ひどすぎる。まるで、売春婦じゃないか!   だけどそうしないと、若い歌手が可哀相だという。じゃ、自分はどうなんだ。可哀相じゃないのか。チコのデビュー当時も、そうやって助けられたというのかい? でも、どうしてチコなんだい。嫌だよ、そんなの。チコだって嫌だったんだろう、だから逃げ出したんだ。 「やめちゃえ、そんなことなら」  勿論、言ったよ。だけど、悲しそうな目で言うんだ。 「歌が好きなの。どんな形であれ、歌っていたいの」 「僕はどうなるんだ、僕は。チコが大好きな僕は」  暫く、困った顔をしていた、チコは。そしてひと言、「ごめんね。あなたには酷な話だったわね……」  頭の中が、グチャグチャになった。ぼくの大好きなチコが、他の誰かに。気が狂いそうだった。涙が、また、ボロボロ流れてきた。悲しかった、また腹が立った。興行主に、事務所に、チコに、そして自分にも。何も出来ない自分に一番腹が立った。  チコがぼくを抱いてくれた。しっかりと抱きしめて、何回も「ごめんね」って、言った。でもぼくはたまらなくなって、チコを突き飛ばしてしまった。 「汚い!」「不潔だ!」  そんな言葉を口走ったような気がする。今思えば、悪いことをしたと思うよ。チコの立場も考えずに。いや、納得したわけじゃない。だけど、ぼくがどうこう言えることじゃなかった。  今日、チコのアパートに行ってみた。居なかった。帰ろうとしたら、管理人のおばさんに呼び止められて、手紙をもらった。 「ごめんね。ホントにごめんね。あなたの純真な気持ちに触れられて、嬉しかった。どこかでわたしを見かけたら、また声をかけてね。お友だちとして、またラーメンを食ようね。       チコ」  辛いよ、とっても。チコが好きだ、すごく好きだ。ぼくには、人を愛するってことがどんなものか、まだわからない。ひょっとして、許すことが愛情なのかもしれない。でも、今のぼくには無理だ。もっと大人になったら、許せることなのかもしれない。  おふくろの手紙の中に、あった。 ―人間というものは、いくつかの暗いトンネルをくぐり抜けて、大人になっていくのです。短いトンネルもあります。明るいトンネルもあります。でも、暗く長いトンネルもあります。うしても一人では、そのトンネルを脱け出られないと思ったら、帰ってきなさい。 お母さんの所に帰ってきなさい。―  疲れた、とにかく疲れた。  今は、ただ眠りたい。何もかも忘れて。  忘れて……? 時が癒してくれるだろうか……。  少し前に話したね。忘れるまで、どうしたらいい? また言いそうだ。  今度は、全身火傷だ。心までも。  帰ろうかな……。
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