十二月三日 (雪からみぞれ、そして雨)

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十二月三日 (雪からみぞれ、そして雨)

 寒い朝だとは思っていたけど、まさか雨が雪に変わるなんて。初雪だ。十二月に入ったばっかりだというのに、もう雪だよ。まあ、出勤する頃にはみぞれに変わっちゃったけどさ。白い雪はきれいなんだけど、溶けるとベチャベチャだよ。歩きにくいったら、ほんとにない。長靴なんてダサイし、持ってないよ。  しかし驚いた。これが偶然というものだろうか。でも、素敵な偶然だった。何とはなしに通りかった、あの市民会館。ベトベトの雪道のせいで、いつもと違う帰り道だった。その通用門で、たったひと時にせよ、僕にバラ色の夢を見せてくれたあの女性歌手に会えるとは。降りしきる雨の中、傘がないらしく肩をふるわせていた。  目が合ってしまった時「良かったら、入りませんか?」と、声をかけた。自分でも信じられない。自然にだよ。ぼくにとっては、命的なことだ。おそらく、耳たぶまで真っ赤になっていたかも。その女性歌手は、ぼくのことを知るはずがない。あの、長文の手紙を書いた偏執狂だとは。  誰も彼女が歌手だとは知らないだろう。確かに雨の日には珍しい着物姿だった。だけど水商売のホステスさんたちも着ている。前座で歌う歌手など、誰も覚えちゃいないよ。 「いま、迎えのものが来ますから。ご親切に、ありがとう」  ああ、この声だ。この声なんだ、ぼくが惹かれたのは。その後、その女性は立ち去ろうとするぼくを呼び止めてくれた。わかるかい? その時の僕の気持ち。天にも昇るとはこういうものだね。彼女にとっては、単なるひまつぶしの軽い気持ちだったかも知れない。でも、話ができたんだ。嬉しかった。つい、「実はいま観た帰りなんです」って、嘘を吐いてしまった。誰の舞台かなんて、もちろん知りはしない。「ファンになりました、応援させてもらいます」なんて言っちゃったよ。その時に握手してもらった。  そうそう。芸能人の辛さなんかを話してもらえたような気がする。プライベートタイムがどうしても深夜になること。気の合う者との語らいや食事が、週刊誌では恋人として書かれてしまうこと。そんなことから事務所から止められてしまい、中々異性の友だちができない、と。もっとも、芸能人同士の場合は、お互い有名税だと思えるが、熱心なファンとの語らいの場を見つかるのが、一番辛いとか。  そうだ、最後に自分のことを話してくれた。 「でも、その点あたしなんかは楽なもの。歌手として認めてもらえていないから。スター歌手とご一緒させていただいても、一行も載らないのよ。付き人位にしか思われてないのネ。最近は、話し相手に引く手あまたなの。だけど、そのお陰で結構ステージに呼んで頂けるの。でも所詮は前座歌手だけれどね」  あまりに自分を卑下したような口調だったから、つい口が滑ってしまい、ぼくがあの長文の手紙の主だということを言ってしまった。最初、気まずい空気が流れたけれど、すぐに謝ってくれた。事務所の指示もあったけれど、やっぱり気味が悪かったって。  前座歌手ごときの自分に、あれほどに熱烈なファンレターが来るわけがないって。やはり、偏執狂だと思われていたらしい。あれ以上手紙が続くようなら、警察に届けたかもしれないって。最後は、二人して大笑いしたよ。  そうそう、チコという愛称を教えてもらった。幸子だから、チコだって。それに、住所も。事務所に手紙を送ると、警察沙汰になるかもしれないから。ヘッヘッヘーだ。やっぱりね、携帯は持っていないんだって。そんなにスケジュールが一杯じゃないから、持たせてもらえないんだって。一度ね、内緒で持ったらしいんだけど、ちょっとしたトラブルになりかけたことがあって、マネージャーが責任を取らされたことがあったらしい。チコ自身もイヤな思いをしたらしくて、なんと固定電話も解約したんだって。昭和の時代よねって笑ってた。  遠い道のりのはずが、すぐに着いたという感じだ。いや、交わるはずの無い道が突然繋がった、かな。もっと話をしていたかったけれど、迎えの車が来たから、終わりだ。別れるときも、しっかり握手してきた。冷たい手だったけれど、気さくな人だった。感激!  明日また、少し離れたN市でショーがあるんだって。来てくれるなら、受付に話しておくからだってさ。そして六時には終わるから、お食事でもしましょうって。  絶対に行くぞ! 会社は休む!
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