十二月十五日  (曇り)

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十二月十五日  (曇り)

 今日は、いい日だ。チコからの手紙が届いた。二十四日のイブの日、仕事がキャンセルになったから、こっちに来てくれるってさ。一緒にイブを過ごしましょう、だって。素晴らしい! のひと言だ。  けどさ、ついでだから聞いてくれるかい。あの、瑛子さんことなんだけど。ビックリした。「ヨリを戻したいわ」って、トイレに追いかけてきて言うんだ。でも…って返事を濁したら、「帰りに喫茶店で待ってるから」。一方的に決められた。  行ったよ、仕方ないじゃないか。もちろん、はっきりと断るつもりでさ。そうしたら、なんと先輩も居るんだよ。でさ、座ったか座んないかで、いきなり「すまなかったな、痴話げんかに巻き込んで」だよ。話によると、元カレなんだって。ぼくとのことは喧嘩別れした後のことだったんだって。だから別れ話になったとき、先輩が中に入ったんだよ。  でまた喧嘩の真っ最中。浮気したとかしていないとか、そんな話を二人で始めてさ。ぼくのことなんかそっちのけで、二人で話に夢中になっちゃって。途中で帰って来たよ。「帰ります」って答えたら「ああ、分かった」だって。いい加減にして欲しいよ、まったく。  カウンターの中に居たマスターがね、肩をすぼめて「大変だね」って声をかけてくれた。それで、「何だったら、ここでもう一杯飲むかい? 美味しいケーキを付けてさ。勿論、伝票は向こうに回すから」って言ってくれたけど遠慮した。食べてくれば良かったのに、って言うの? 確かに小学生の頃の夢だったけどさ、静かな店内でクラシック音楽なんかが流れてて、そうだな誰が良いかな。モーツァルト? マーラー? いや、ベートーベンがいいかな。運命じゃないよ、第九だよ。以前は好きじゃなかったけれど、あのDVDを観てから気が変わった。「敬愛なるベートーヴェン」だよ。写譜師との恋愛を描いた、あの映画だよ。  あそこの喫茶店は好きだったんだけど、あの二人も知ってるとなると行きにくいなあ。何といってもさ、ドアを開けると「カラン、カラン」って鳴る鐘がいい。そしてカウンターの中から「いらっしゃい!」って声をかけてくれて、いつもの奥まったテーブルに行って腰をかける。するとすぐにあの子が「コーヒーでいい?」。  初めのころは小さな声で「コーヒー下さい」って行ってたぼくが、今じゃ常連さんだから良いだろうって感じで「うん」なんて答えてさ。それでもって店の中をひと通り見回して、いつもの仲の良さそうな老夫婦やら、近所のおばさんたちだろう三人組のおしゃべりを確認して、今日はみかけない二人組の女性陣がいるとか、ぼくみたいにひとりで漫画本を読み耽っている男性がいるとか、品定めをする。  そうだ、カウンターの反対側の壁に掛かってる、あの絵がいいんだよな。石畳の上を馬車が走っている光景で、どこかの舞踏会にでも向かうのだろうか、馬車の背が描かれている。鞭だろうか、馬車の屋根の上に小さく見えている。速度を上げるために振り上げたのだろうか。あれが馬の身体に当たったら痛いだろうなあ、とか考えたりする。  馬車の背の小窓に見える羽根飾りの付いた帽子が、小刻みに揺れるのは馬車のわだちのせいだろうか。隣には、立派な髭を蓄えた紳士が乗り合っているだろう。それとも母親だろうか。空は薄暮の状態で、道路の両脇のポプラ並木は黄色い葉がしっかりと茂っている。  案外に、初めての社交界デビューかも知れないな。父親は先に行っているかも知れない。そこで、娘のお婿さん候補の品定めをしているかもしれないぞ。ということは、ここはパリだと言うことになる。  そうだ、ローマ皇帝カール六世の娘で[女帝]と称されたマリア・テレジアの娘である、マリー・アントワネット。ルイ十六世の王妃になったんだっけ。民衆に誤解されたまま革命の渦に巻き込まれて、その最期ははギロチン刑だった。毅然とした態度で処刑台に向かったとか、可哀相な女性だったよな。  なんだか、エジプトのクレオパトラに似ているような気がするのは、ぼくだけだろうか。民衆の畏敬の念がいつの間にか憎悪の念に変わってしまう。ちょっとしたきっかけなんだろうけど、その裏には必ず意図して囃す輩(やから)が存在しているんだ。くそっ! ぼくがそいつの裏をえぐり出してやる。といっても、学術的研究の面からではなく、小説の中でだ。  タイトルは、そうだな。『マリー・アントワネットに恋した男』というのはどうだい。パリを旅行している男が、そうだ! あの馬車に乗り込んでしまうことにしよう。いや、別の馬車にしよう。それで舞踏会に行っているんだ。そこで……待て待て、焦るな。じっくりと構成を考えることにしょう。それで、今度のイヴの日に、チコに話してみよう。でも、こんな話は、チコはどうなんだろう。退屈しちゃうかも。
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