六月十日 (曇り)

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六月十日 (曇り)

 もうダメだ! 自分自身を嘲笑し、何もかもに感動を失った。自暴自棄に近いよ。何もかも放り出して、それこそ自由気ままに生きたいよ。  冗談じゃない。あれは、僕のミスじゃない。断じて違う。聞き間違いだって? 二度も確認したんだから。なのに、主任の言葉は…。お得意さんには逆らえないって、こと? 電話なんか取るんじゃなかった。事務の瑛子さんが、「あの方、すごく早口なんです」ってかばってくれたけど、ぼくは間違えてないんだよ。信じてよ、ぼくを。  自殺という二文字が、頭の中を駆け巡る。自分がこんなにも弱い人間だなんて、思いもしなかった。  そういえば、彼はどうしているだろう? 二度もの自殺未遂の末に、何とかという病名を付けられて保護されたはずだ。それにしても、ぼくにはどうしてもわからない。確かに、現実と夢の区別が付かないようではあった。だけど誰だって、大なり小なり話を面白くする為に誇張することはあるじゃないか。彼の場合、少し度が過ぎているだけのことだろうに。どうして、みんな、あんなに大げさに騒ぐのだろう。彼のお母さんは「この子は良い子なんです。気持ちの優しい子でなんです」と、必至に周囲に訴えていたけれども、何があったんだろう。  確かに、お母さんが言うように感受性の強い彼だった。背の高い彼は、背を丸めて廊下を歩いていた。なんだかいつもブツブツと呟きながら、眉間にしわを寄せていた。「あなた友だちでしょ、注意してあげなさいよ」と、女子生徒に言われた。でも、特に親しいわけじゃない。朝の挨拶を交わすのが、たまたまぼく一人だけということなのに。  その彼が高校時代に作った、[桃源郷]というタイトルの詩を、卒業の記念にと渡された。それを見ていた女子生徒たちから「ラヴレター、もらってる!」と囃された。よほどその場で突っ返そうかと思ったけれども、彼は一陣の風のようにあっという間に居なくなっていた。 星の流れが霧に閉ざされ、時の流れも止まった今夜、ぼくは君と歩いている。 それだけでぼくは幸せなのに、君は不満だという。そして口づけをせがむ。 触れ合うものは心だけでいい。肌の触れ合いが必ずしも、永遠にしてくれるものではない。 それどころか、このぼくには、タブー。 君に、ガラスのドレスを着せたい。ガラスの帽子にガラスの靴。きっと、素敵だろう!  弱い月の光にきっと、七色の虹に輝くだろう。 どうして君は、夢に酔えないの? 昨日を思うでもなく、今日を見るでもない。まして、明日のことではない。 ”夢は、夢よ!” その通りだ。 キラキラと宝石のように光り輝くガラスの靴を、君は嫌う。 どうして?  ”ガラスは固いから、靴ずれするわよ!” これが君の答え。 君には、それを嫌がるぼくが不思議に見えるだろう。  彼が病院に連れ去られる少し前のことだったよ。 「クスリを飲み、次第に意識が薄れていく。手首の血管から血がドクドクと流れ出る。  おそらく、耳にまで届くだろうさ。そして、ガス栓からのシューッという吹き出す音を耳にしながら、ぼくは彼女と語り合う。 ”ほら、こんなに勢いよく血が流れ出て。…きれいだぜ” ”シューッだって。ピュッピュッと、吹き出せばもっと面白いのにね”  そんなことを、二人して話すんだよ。でも…どうなんだろうね、その時セックスはするものだろうか。それともただ手を握りあって、じっと見つめているだけだろうか? ……今、悩んでいるんだ」  いつだったか、たまたま登校時間が同じになったときだった。彼がそんなことを真顔でぼくに話してくれた。ぼくときたら、そんな彼に羨望の眼差しを、向けていたような気がする。何て素敵なシーンを思いつくのだろうって。だって、自分のいのちが終わる瞬間を、さも他人事のように語るんだぜ。彼は二人居るのか? って、思わないかい?  もっとも、正直なところ彼が本当に自殺を図るとは思ってもみなかったけどね。一度目の未遂の時、「量を間違えたのさ」と言った。二度目には、家族や医師を罵ったってこと。その時の彼の形相、鬼気迫るといった具合だったらしい。らしい、というのはさ、怖くて会いに行けなかったんだ。  お母さんの話だ。「一生を病人で過ごして、わたしに迷惑をかける位なら、と自殺を図ったのです。この子は、あなたもご存じの通り、とても気の優しい性格ですから」。  あるいは、お母さんの言葉が正しいのかもしれない。多分そうなのだろう。病のことが彼を苦しめ、精神的重圧となり、あの彼の言葉になったと思うよ。  彼は今、どうしているだろう? 今でも病院だろうか。
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