また明日。

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また明日。

 6時25分発。上りの始発電車。二両目、真ん中のドア近く。  いつもと同じ電車の、いつもと同じ場所。九月からずっと続けている、私の日課。几帳面な彼は、乗る電車も車両も、毎朝同じだから。  だからこうすれば、私は彼に会うことができる。  車内には、私と同じ制服を着た人なんてひとりもいない。  だってたぶん、この街からあの高校へ通っている酔狂者なんて、私以外いない。たいした偏差値もブランドもないあの高校に、片道一時間もかけて通う理由なんて、私以外には誰にもないはずだから。  四十分ほど走って、電車が中町駅に着く。  彼が乗ってくる駅に。  九月までは、きまって、この車両の先頭のドアから乗り込んでいた彼。だから私はここにいれば、少し離れた場所から彼を眺めていることができた。電車が高校の最寄り駅に着くまでの十五分間、存分に。 「おはよ」  だけど最近の彼は、真ん中のドアから乗ってくる。私のいる、この場所に。  「おはようございます」 「今日だな、模試の結果出んの」  そうして当たり前みたいに、私に話しかけてくる。眠たそうに、あくびを噛み殺しながら。 「そうですね。楽しみですね」 「悪いけど、俺たぶん相当良いから」 「まあ、土屋くんの相当なんてたかが知れてるので」 「……言ってくれんじゃん」  こうしていると、以前は周りからちらちらと向けられていた視線も、いつの間にかなくなった。だから、人がいるところで話しかけてこないよう土屋くんに頼むのも、もうやめた。もっとも、頼んだところで土屋くんはちっとも聞いてくれない。 「ちゃんと約束覚えてる?」 「はい。負けたほうがお昼奢るんですよね」 「そうそう。なに買ってもらおうかな」  だから、今日はお金をだいぶ多めに持ってきた。土屋くんになにをねだられてもいいように。そして自分の分のお昼ご飯は、すでにコンビニで買ってきた。万が一私が勝っていたって、土屋くんになにか買ってもらうなんてそんな畏れ多いこと、できるわけがないから。  まあどうせ、心配しなくても私が負けているだろうけど。 「じゃあ今日は、教室じゃなくて掲示板前な」 「わかりました。結果見てから、購買行くってことですね」  別れる前に、そう昼休みのことを申し合わせる。当たり前みたいにこんな約束ができていることに、私はいまだに足元がふわふわする。 「財布忘れず持ってこいよ」 「土屋くんも」  これで今日も、私は昼休みまで頑張れる。昼休みに、彼といっしょにご飯を食べるため。  それまでは、なにがあっても生きていなければ。  そうして迎えた昼休み。  職員室前へ行くと、すでに土屋くんは来ていて、掲示板に貼られた成績表をじっと眺めていた。  私もちらっと目をやって、あ、よかった、と思う。いちばん上にある土屋くんの名前だけは、探すまでもなく目に飛び込んできたから。 「季帆」  それにほっとしていたら、気づいた土屋くんがこちらを振り向いた。  なぜか、けわしい表情で。 「なにしてんの、お前」 「え?」  土屋くんに指さされ、成績表のほうをあらためて見てみる。  土屋くんの名前の下。当然そこにあると思った私の名前が、なかった。あったのは、平井なんとかという知らない男子の名前で、そのさらに下に、ようやく私の名前を見つける。  つまり、三位の位置に。 「……え」  さすがにびっくりして、私は目を瞠る。  たしかに、勉強に身が入っていない自覚はあった。最近はバイトも始めたし、夜は次に土屋くんと行きたい場所を探すために雑誌を読んだり、次に土屋くんに会うときのためにメイクの練習をしたり服を選んだり。そんなバカみたいなことに忙しかったから。だからたぶん、土屋くんには負けているだろうなと思っていたけど、でも。  まさか、ここまでとは。 「なにやってんだよ、気抜きすぎじゃねえの」  うなだれる私の隣で、土屋くんはなぜか、ものすごく不機嫌そうだった。自分が一位をとれたことに喜ぶでもなく、「三位ってさあ……」とひたすら私の順位をぐちっている。  それに私がますます落ち込んできて、ごめんなさい、と消沈した声で謝ろうとしたとき 「……あいだによけいなやつ入れんなよ」  ぼそっと続いた声に、私は彼のほうを見た。  土屋くんはふて腐れた子どもみたいな横顔で、成績表のほうを睨んでいた。  私も視線を戻すと、あらためてそこに並んだ名前を見る。上から、土屋くん、平井なんとか、私の順で並んだ名前。  眺めているうちに、私もふと眉を寄せる。  ……誰だ、あの平井って。  前回までは、必ず並んでいた二人の名前。順番が逆になることはあれど、よけいな名前が入り込むことなんてなかったのに。ずっと、隣同士だったのに。  もぞもぞとした不快感が這い上がってきて、そこでようやく、私は土屋くんの不機嫌の理由を理解する。  ああ、たしかにこれは駄目だった。土屋くんに負けるのはいいけど、三位なんて。  ごめんなさい、と私は土屋くんのほうを向き直って早口に謝ると 「次はまた頑張ります。ぜったい二位になります」 「いや、一位目指せよ」 「間違えました、一位になります!」 「まあ、それは無理だろうけど」  少しだけ機嫌が直ったように、土屋くんが口元をゆるませる。  それにほっとしながら、だんだん人が増えてきた掲示板前を離れ、廊下を歩きだしたところで 「じゃあ俺の勝ちだから、なんか奢ってもらわないとな」  思い出したように土屋くんが言った。 「あ、はい!」三位の衝撃ですっかり忘れていたことを、私もそこで思い出して 「なにを奢ればいいですか?」  一万円分ぐらいは買ってあげるつもりでお金を用意してきた。だから、なんでもいいですよ、と私が力強く言い添えようとしたら 「――かき氷」 「へ?」 「かき氷がいい」 「……かき氷?」  だいぶ予想外の単語が出てきて、思わず二度も聞き返してしまった。  土屋くんのほうを見ると、実に真面目な顔をした彼と目が合って 「えっと、コンビニのやつでいいですか? カップに入った……」 「だめ。屋台で売ってるやつ」 「屋台?」 「発泡スチロールのカップに入った、氷にシロップかけただけの」  言われて、イメージは湧いた。小さい頃に行った夏祭りで何度か買ってもらっていた、シンプルなかき氷を思い出す。だけど、 「屋台なんて、そんなそのへんにないですよ? お祭りにでも行かないと……」  そのときの夏祭り以外で、かき氷の屋台なんて見たことはない。街を歩いていて遭遇したこともないし、そもそも今は十一月だ。かき氷の屋台が出るような時期でもない。  だからどこで買えばいいのかわからなくて、私が困っていると 「お祭り行けばいいじゃん」 「え、いつ」 「八月に、俺の地元で夏祭りがあるから」 「……八月?」  繰り返すが、今は十一月だ。  ますます困惑する私に対し、土屋くんはなんとも当然のように 「来年の八月、いっしょに夏祭り行って、そこでかき氷奢って」 「来年?」 「そう、来年」  振り向いた土屋くんの表情は、真剣だった。  こういうときの彼の目は、視線を逸らすことを許さないぐらいまっすぐで、私はいつも、息ができなくなる。心臓をつかまれたみたいに、ぎゅうっと痛くなって、目眩がする。  来年の夏祭り、と土屋くんは言った。 「いっしょに、行こう。季帆」  そこで私はふと、土屋くんが今日も巾着袋を持っているのに気づいた。  いつも、土屋くんのお母さんお手製のお弁当が入っている、その巾着袋。  私がコンビニのビニール袋をぶら下げているのと同じように。  土屋くんも、自分の分のお昼ご飯を用意してきていた。  その意味に気づいた瞬間、また喉をぎゅうっと絞められたみたいに、息が通らなくなって 「……は、い」  なんとか、そんな掠れた声だけ喉から押し出した。  ――来年の、八月。  想像しようとしたけれど、遠すぎてちっとも思い描けなかった。  その頃も、土屋くんは本当に、私といっしょにいてくれるのだろうか。もう飽きてはいないだろうか。こんな重くてうざい女、嫌になっていないだろうか。 「ぜったいだから」 「え」 「ぜったい、お前にかき氷奢ってもらうから。夏祭りで」 「……はい」  だけど、少なくとも今。  土屋くんは来年まで、私といっしょにいてくれる気らしいから。  だからきっと、土屋くんは今日も私に「また明日」と言ってくれる。  そして私は、その言葉にまた明日まで生きていようと思って、明日の朝も始発電車に乗る。もう一本遅い電車でも間に合うのに。五時に起きて、まだ空が暗いうちに家を出て。土屋くんの「おはよう」を聞く、ただそれだけのために。  これからもどうせ、私はそんなふうに生きていくのだろう。  生きていかなければ、ならないのだろう。きっと、ずっと。  土屋くんのせいで。
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