体温と、匂いと

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体温と、匂いと

 倉庫から、バスケットボールの詰め込まれたカゴを押して外に出す。これがなかなか重くて、けっこう腕にくる。  運動不足かもなあ、なんてぼんやり考えながら、出口のところでいったん足を止めたとき 「手伝うよ」  そんな声がすると同時に、押していたカゴが軽くなった。ありがたい。 「あ、さんきゅ……」お礼を言おうと声のしたほうへ顔を向け、けれど途中で声が詰まった。  そこにいたのが、樋渡だったから。   「え……なに?」  お礼の代わりに、露骨に警戒した怪訝な声が漏れる。 「なにが?」ときょとんとした顔でこちらを見た樋渡に 「なんか俺に話でもあんの? 文句?」 「え? いや、べつに?」  樋渡はちょっと困ったように首を傾げつつ、当たり前のように俺の隣に立って、カゴを押しはじめる。さっきまでよりだいぶ軽々と、カゴが前へ進む。  そのしらっとした横顔を、俺はまだ警戒して眺めながら 「嘘つけ。なんかあんだろ、どうせ」 「ないよ。なに、なんかって」 「俺に言いたいこと。……あ、わかった」  よぎったのは、先日季帆と揉めたハンドクリームの一件だった。目撃者は樋渡の友達だった、と季帆は言っていた。そいつが樋渡に報告して、さらに樋渡が季帆に報告したと。つまり、樋渡も知っている。  そのことで文句を言いにきたのか、と思い当たって 「このまえ、俺が七海と買い物行ったことか」 「ああ、そういえば行ったんだってね。坂下さんへのプレゼント買いに行ったんでしょ」  返ってきたのは、思いのほかやわらかな声だった。単なる世間話みたいな、なんの動揺も混じらないその口調に 「……え、それで怒ってんじゃないの?」 「べつに? なんでそれで怒るの」 「彼女が他の男と二人で出かけてんですけど」 「土屋ならいいよ。昔から仲良いの知ってるし」  穏やかな口調にやせ我慢の色は見えなくて、俺はますます眉を寄せる。「なら」の部分がやけに強調されていた気もしたけれど。  口調と同じだけ穏やかな横顔のまま、淡々とカゴを押す樋渡を見ているうち、妙な悔しさが湧いてきて 「……じゃあ、あれは」 「あれ?」  聞き返しながらこちらを振り向いた樋渡に、俺は体育館の奥を指さす。  先ほどから絶えず、わっと歓声が沸いている、そこ。  二つに区切られた体育館の奥、あっているのは男子のバスケの試合だ。誰か人気の男子でも出ているのか、やたら女子のギャラリーが多い。コートの中を軽やかに駆け回る彼らに、しきりに黄色い声援が送られている。  その中に、七海の姿も見つけた。友達といっしょに壁の近くに座って、誰かがシュートを決めるたび、楽しそうに拍手をしている。 「あれ、いいんすか」 「なにが?」 「七海、なんか男物っぽいジャージ着てるけど」  彼女が羽織っている、ぶかぶかのジャージ。あきらかにサイズが合っていなくて、肩も袖もかなりあまっている。どうせ樋渡が貸したのだろう、と最初に見たときはただそれだけ思って、なにも気にしなかったけれど。  だけど今、俺の隣にいる樋渡は、七海が着ているものと同じジャージを着ている。学校指定の、くすんだ青色のジャージ。同じジャージを二着も持っているなんてことはないだろうから、だったら、あれは誰のジャージなのか。 「ああ、吉川が貸してくれてたんだよ。七海が寒そうだったから、って」  樋渡が口にしたのは、俺も面識のある二組の男子の名前で 「……え、それいいのか?」 「それって?」 「七海が他の男にジャージ借りてんの。気になんないの?」 「うん、べつに」  答えは、みじんも迷うことなく返される。意地を張っているようにも見えなくて、俺はだんだん困惑してきた。  もしかして俺が小さいのか、とちょっと不安にもなってくる。  俺なら、彼女が他の男のジャージを着ているなんて、死ぬほど気に食わない。体温とか匂いとか、ともすれば汗とかがつくかもしれないし。正直、ジャージを貸すってそのへんを見越した下心を感じるし。いや、吉川は根っからの親切心だったのかもしれないけれど、とにかく。俺なら嫌だ。とてつもなく。  だけど樋渡の表情にはなんの動揺も見られなくて、戸惑うと同時にだんだん落ち込んできた。  これが一年の差ってやつなのか、と前に聞いた季帆の言葉を思い出しながら噛みしめる。一年人生経験が違えばいろいろと変わるし、女子はそれに惹かれがちなのだとか。  だとしたら、たしかにずるい。来年になれば、俺もこうなっているのだろうか。彼女が他の男と二人で出かけていようが他の男にジャージを借りていようが、べつにいいよ、なんて平然と言えるような。  ……いや、無理だろうな。ぜったい。  嫌になるほどすぐにそんな答えに至って、ますます落ち込んでいたら 「――だって七海、吉川のジャージ着てないし」 「え? ……いや着てんじゃん」  樋渡の続けた言葉の意味がわからなくて、困惑しながら再度七海のほうを指さす。  試合を眺めるのも飽きたのか、隣の友達と会話を始めている彼女は、今もしっかりぶかぶかのジャージを羽織っている。  首を捻る俺に、ああ、と樋渡は呟いて 「あれ、俺のジャージ」 「……は?」 「七海に着せるわけないじゃん。吉川のジャージとか」  当たり前みたいにさらっと言い切られた言葉に、俺は樋渡のほうを見た。  ぽかんとする俺に、樋渡が説明する。 「七海が吉川にジャージ借りたって言うから、俺がそれもらって、代わりに俺のジャージ貸したの」 「……え、なに。じゃあお前が今吉川のジャージ着てんの?」 「うん」  唖然とする俺にかまわず、「だって」と樋渡はあいかわらず穏やかな調子で 「ジャージ貸すとか下心しか感じないし。七海の肌に他の男の服が触れるとか吐き気するし。どうせあいつも、返ってきたジャージに残ってる七海の体温とか、匂いとか嗅ぐ気に違いないし」 「……え、お前」  普段そんなことしてんの……?  よぎった疑惑は、口に出さずに呑み込んだ。  あまり、答えを知りたくない気がしたから。 「……樋渡って」 「なに?」 「……いや、なんでも」  なんだかいっきに疲れた気分で、俺は前を向き直る。聞かなきゃよかった、と今更後悔しながら。  だけど、ついさっきまでまったく理解ができないものと感じていたその横顔が、ほんの少し近くなったように感じてしまって、それはたぶん、認めたくないけれど親近感のようなもので。  それがなんだか、不本意だった。とても。
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