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待ってなんかやらない。
「土屋くん、私、思ったんですけど」
ふと思いついたように季帆が言い出すときは、たいていくだらない。
いつものように、いっしょに勉強するという名目でやってきた近所の図書館。
向かい側に座る季帆が、だいぶ前から集中力を切らしているのは気づいていた。すでにシャーペンはぜんぜん動いていなかったし、机に広げた問題集ではなく、俺のほうばかりちらちら見ていたから。
それでもかまわず無視していたら、ついに彼女もしびれを切らしたらしい。
「土屋くんって、なんか、他人行儀じゃないですか?」
「――は?」
聞き流すつもりだったけれど、だいぶ思いがけないことを言われたもので、思わず顔を上げていた。
他人行儀?
「なに、どのへんが?」
「どのへんって、名字のあたりというか」
「名字?」
「だって、土屋くんのクラスの女子とかも、土屋くんのこと土屋くんって呼ぶでしょう」
ぎゅっと眉を寄せた季帆が、真剣な表情で続ける。シャーペンも置いて、軽くこちらへ身を乗り出しながら。
話の流れがわからず、はあ、と間の抜けた相槌を打つ俺にかまわず
「なのに彼女の私も土屋くん呼びって駄目じゃないですか? 彼女なのに、そのへんの女の子たちと同じ呼び方って。彼女なのに」
「……ああ、呼び方の話」
そこでようやく、最初に言われた他人行儀の意味を理解した。
なんだか力が抜けて、ふたたび問題集へ視線を戻そうとしたら
「七海さんって、土屋くんのことかんちゃんって呼びますよね」
「呼びますね」
「ただの幼なじみなのに、なんだか私より親しげな呼び方ですよね。ただの幼なじみなのに」
「なんでさっきからいちいち二回言うんだよ」
しかも“ただの”の部分をやけに強調して。
「これ、どうなんです?」
「なにが」
だって、と季帆は真面目くさった顔でますますこちらへ身を乗り出しながら
「ただの幼なじみである七海さんが、かんちゃんって呼んでるんですよ」
「いいだろ、べつに。つーか、幼なじみだからこそだろ」
「よくないです。だって、私は彼女なのに土屋くん呼びなんですよ。彼女なのに。これ、駄目じゃないですか? いや、駄目です!」
言っているうちに、季帆はひとりでどんどん熱くなってきたらしい。
もう完全に、勉強なんてする気がなくなっているのがわかった。シャーペンの代わりに、顔の前でぐっと拳を握りしめながら
「私も土屋くんのこと、名前で呼ばないといけないと思いました。なぜなら彼女なので。彼女なので!」
「だから二回も言わなくていいよ」
「なのでこれからは私、土屋くんのこと、名前で呼びます。決めました。今決めました!」
「へえ」
呼び方なんて、気にしたこともなかった。たしかに季帆はいまだ名字呼びだったけれど、べつにそれで距離を感じたこともないし、季帆の呼びたいように呼べばいいと思っていた。だから彼女が名前で呼びたいと言うのなら、もちろん拒否する理由もないし
「好きなように呼べば。これからは、呼び捨てでもちゃん付けでも」
「はい、そう呼びます! 彼女なので!」
「はい、どうぞ」
「本当に呼びますからね!」
「呼べばいいじゃん」
素っ気なく返して、俺は机に広げた問題集に視線を落とす。そうして勉強に戻ろうとしたけれど
「本当に、呼びますよ?」
季帆がやたらしつこく念を押してくるので、また顔を上げた。眉を寄せる。
「だから、どうぞっつってんじゃん」
「……つ、土屋くんの下の名前って」
「幹太だけど。は? なに、知らなかったの?」
「し、知ってたに決まってるじゃないですか! 確認です!」
「あっそ」
「じゃ、じゃあ……えっと」
途端に歯切れの悪くなった季帆が、両手を膝の上に置き直す。そうして顔を伏せると、すっと短く息を吸った。
「か……」と彼女が口を開きかけたのがわかった。
けれど声はかき消え、それ以上続かなかった。代わりに続いたのは、喉の奥で唸るような声で
「……は?」
怪訝に思って視線を上げると、なぜか頬を赤くして机の木目をにらむ季帆がいた。眉を八の字にして、軽く唇を噛んで。
「いや、なにお前」わけがわからない反応に、俺は困惑して呟くと
「自分で言い出したんだろ」
「……だ、だって」
季帆のほうはなんだか途方に暮れた顔で、ぐるぐると視線を泳がせながら
「いなかった、から」
「なにが?」
「下の名前で呼ぶような男の子とか。だから、よく考えたら、は、はじめてで」
「……へえ」
――はじめて。
季帆が口にしたその言葉は、思いかげなく甘い響きがした。
ふいに喉を絞められたような息苦しさといっしょに、渇きがおそう。口の中ではなく、身体のずっと奥のほうで。
思わず口元がゆるむ。
こぼれたのは、たぶんひどくうれしそうな、そして意地の悪い笑みだった。
「季帆」
声まで笑いそうになるのを堪えながら、俺は彼女を呼ぶと
「名前で呼ぶんだろ、俺のこと」
「よ、呼びます。呼びますよ」
「じゃあ早く呼べば。俺の名前知ってんだろ」
重ねれば、季帆はますます困ったようにうつむいていた。唇をぎゅっと結んで、耳まで赤く染めながら。
ちょっと泣きそうなその顔を見ているうち、なんだかもう俺も勉強する気なんてなくなってきて、シャーペンを置いた。頬杖をつき、向かい側に座る季帆の顔をじっと眺める。
その視線に、彼女は居心地が悪そうに肩をすくめていたけれど、残念ながら逃げ場なんてなくて
「季帆」
だめ押しとばかりにもう一度呼んでみる。
「言えよ。……早く」
そこで限界だったらしい。がたん、と派手な音を立て、季帆が勢いよく立ち上がる。「ああっ、あの、えっと」思いきり上擦った、情けない声を上げながら
「やっ、やっぱり! ま、まだ、まだいいかなって」
「は? なんで」
「その、私にはまだ、早いというか、まだ、土屋くんかなって」
「でもお前、俺の彼女だろ」
「へっ」
事実を告げただけなのに、そこでなぜか素っ頓狂な声が上がった。
というか、さっきまで自分で散々言っていたくせに。まるで未知の単語でも聞いたみたいに目を丸くする季帆の顔を、下からじっと見上げながら
「彼女ならやっぱ名字呼びはよそよそしいなって、俺も思います」
なんて、思ってもいないことを言ってみる。できるだけ切実なトーンで。
案の定、途端に葛藤するような表情になって俺の顔を見つめる季帆に
「俺は名前で呼んでほしい。季帆に。俺ら付き合ってんだし」
「……う」
季帆は呻くような声を漏らし、困り果てたように顔を伏せた。
机の上で、ぎゅっと両手を握りしめる。しばらく逡巡するような間があって、やがて、意を決したように唇を噛んだ彼女は
「か……」
口を開きかけて、また途中で声を切らした。中途半端に開いた唇を、その形で留めたまま途方に暮れたように震わせる。
そうしてぽつり、
「……やっぱり、無理」
こぼれたその切実な声を聞いたら、俺ももう限界だった。
机に広げていたノートや参考書を、いくらか乱雑にまとめる。そうしておもむろに鞄にしまい始めた俺を見て、「え?」と季帆がちょっと戸惑ったように
「もう終わるんですか?」
「うん。場所変える」
「へ、どこに?」
「俺の家」
え、と声をこぼした季帆は、いつもなら大喜びするはずが
「……なにするんですか?」
「勉強に決まってんじゃん」
「ほんとに?」
「あと練習」
「練習?」
「俺の名前呼ぶ、練習」
季帆の反応は待たず、勉強道具を詰め込み終えた鞄を肩に掛ける。そうしてさっさと歩き出せば、「わ、ま、待って!」と季帆もあわてたように机の上を片付けはじめた。
土屋くん、と後ろから余裕のない声が追いかけてくる。
季帆の言うように、俺のことをそう呼ぶ人は他にもたくさんいるけれど。
彼女の声で形作られるその名前だけは、なんだか他とは違う響きがすることも、だから季帆にそう呼ばれるのも、実はかなり好きなことも。
今はじめて、気づいてしまったけれど。
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