序章

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 彼女は郷里は和歌山だと言った。紀ノ川でよく父が鮎釣りをしていた。 「鮎はコケばかり食べるから餌では釣れないから元気な鮎を泳がして釣る、その友釣りを見ているとなんか内の会社の連中とダブってくるんですよね」 「そうなんですか」 「そうなんですよ、運転手さん」  彼女は身を乗り出して来た。 「女を高級ブランド品で釣るのよ、辞めた前の彼女が言ってた。一緒になってからそのカードローンをあたしが返済するなんてばっかみたいとも言ってた。これって鮎の友釣りよりえげつないと思いません?」 「まあ気を惹く切っ掛けはどうであれそれでも好きで一緒になったのですから」 「そんな成り行きなんて愛じゃないでしょう好きなら堂々と心を開いて求めるべきです」 「有島武朗に言わせれば愛は惜しみ無く奪うですか」  やっぱりこの人は少し酒が回っていると頭を冷やす意味で文豪の一節を言った。  そこで彼女の態度が変わった。なぜ有島だけが賛歌されて一緒に心中した秋子さんは呪われ無ければならないのですかと運転席の背もたれにつっかかる様に抗議して来た。  まずい気を逸らすつもりがやぶ蛇になってしまった。 「あの軽井沢の心中事件ですかそれとさっきの友釣りとどう云う関係でしょう」  山路は問題をはぐらかした。 「そんな事知りません持ち出したのはあなたです」  彼女は姿勢を戻して深く後部座席に身を沈めた。 「でも観光でも無いのにそんな話するなんて珍しい。いつかゆっくりそんな話をしながら市内巡りも良いかしら。今度は貸切で頼もうかしら」  そして彼女は窓の景色に見とれた。山路は運転に専念した。車は桂川を渡り桂離宮を過ぎた。そこから細かく道順を指定して彼女はタクシーを降りた。確かな足取りで去ってゆく後ろ姿を見ながら日報に降車地と運賃と時間を記入し彼はそこで今日は入庫した。
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