序章

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 正月休みの幕の内が過ぎるとあれから前回の新年会帰りの様な料金メーターの上がる客には恵まれず年明けから客足は伸びなかった。  今月分の締め切り日が迫る中で会社も「今月はもう後がない、今から他府県に行く長距離客を幾つも望めないからこの辺で何とかしろ」と言われていた。  どうせなら気分転換にと山路はこのさいに超過勤務分を帳消しにするために休暇を取ってまた越前大野の短い旅をした。  昨年の十一月に雲海の越前大野城を狙って行ったが雲海は出来ず外れだった。その悔しさもあって今度は雪景色を狙った。前回宿泊した時は旅館の調理場の板前とあの山城の話で意気投合してしまった。  彼は名乗らななかったが胸につけていたネーム版で岡田と云う苗字だけは分かった。お客さんの前に顔を出す機会が少ない調理場の人も名札を付けるのかと思った。とにかく彼は何事にも関心を持った。シーズンオフなら尚更に彼は人前に出た。特にあの越前大野城の雲海に憧れて来たとひとこと言うと彼は接客係でもないのに暇を見つけては山路の所によく来てくれた。  その彼をまた訪ねて城の撮影ポイントを訊くのも悪くはないとの思いもあった。実際に今回は更に旅館も暇だったから昼間は店の車で彼が幾つかの撮影ポイントを案内してくれた。その時に彼は身の上話をしてくれた。それで山路は彼があの東北大震災での津波に遭遇して記憶を失くしていた事を初めて知った。それで彼が付けていた名札も昔に居た人の物だと解った。それから彼はこの旅館では岡田と呼ばれていたことも知った。名前を知らないのだから彼には何の抵抗もなかったようだ。  そこから岡田さんの身の上話ではこの五年間でどうにか思い出したのは津波以後の途切れ途切れの過去だった。
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