序章

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 漁師だと勝手に身体(からだ)が動いて生活の基盤も出来上がっていましたから、それを一からやり直すのはやはり不安でした。ただ魚がさばけてある程度のまかない飯も作れる。漁師の世話をする組合長がそこまで考えてくれた。だから一般の人々と頻繁(ひんぱん)に接触できる旅館の調理見習いで紹介してもらいました。 「だから山路さんと懇意にさしてもらったのも何かの縁でしょうね」  一応、岡田と呼ばれた人は屈託の無い笑顔で喋っていた。  こんな風に越前大野での旅はあっと云う間に過ぎて仕舞った。翌朝には彼に駅まで送ってもらった。その車の中ではこの旅行で聞きそびれた事が訊けるまでなっていた。 「助けてくれた貨物船ですが何でまた福井県の三国港で降ろしたんですか」 「なんせ記憶喪失者ですからね何処でも良いと云う訳にはいかなかったのでしようね船長が三国の漁業者に信頼の置ける人が居るからとそこに預けられたんです」 「助けられた場所はどの辺なんです」 「福島県の沖合でした。なんかタンスの様な木箱に収まっていたそうです」 「じゃあ三陸海岸のどっかの民家から流れ出た物なんですかねぇ」 「さあそれはサッパリ記憶にありませんから」と彼は笑っていた。 「それもそうですね、でも良い笑顔をされますね」 「今のわたしは何もない人間なんですよ。だからいつも笑って自分をさらけ出して記憶のきっかけ作りをしているんです」  彼は記憶を無くしてからは良好な人間関係を築く事で失われたものを取り戻す努力をして来た。それで習得したのがこの笑顔だった。 「じゃあ生まれ付いた物じゃないんですね」 「そうですね、だから心の中はやはり閉ざされた漆喰の闇に居るようなものですよ」  これが彼の本音のようにも聞こえた。 「だからこうしてサッパリとさらけ出すことで周囲の人々も私の過去に光が当てる努力を惜しまなかったのですよ。その時に身に付けていたのはこれだけでした。だからこれも光のひとつなんですよ」  そう言いながら小さな袋を出した。 「中を見ていいですか」 「どうぞ、そのつもりですから」  中には十センチほどの長さの仏様のような物が入っていた。 「旅館の女将さんに見てもらったら何でも奈良の長谷寺の御本尊である十一面観音菩薩に似ているんじゃないかしらと云うんですよ」 「遭難した十一日に唯一身に付けていたのが十一面観音菩薩ですか」  ーー旅館の女将さんの説明では長谷寺の御本尊の十一面観音菩薩は紫式部も参拝したそうだ。そして今昔物語りには奇跡に巡り会える観音さまと書かれていた。 「それを聴いてからこうして大事に持っているんですよ」  そこからはどうしても自分の過去を知りたいと云う強い願望がヒシヒシと伝わってきた。 「岡田さんですか。早く本当の名前が判れば良いですね」  そこで駅に着いてひと言そう云って別れた。  彼は己の心を隔離して生きて来た。いやこれから先も隔離して生き続けねばならないのか、何とか津波で失われた空白を埋めてやりたいとも思った。  彼の周りに居た人々とは五年前に彼の意志でなく自然の力に因って一方的に絶縁されている、それはあまりにも理不尽だった。しかし、ひょっとしたらあの笑顔が消えるかも知れない悲劇が待っているかも判らなかった。それを思うとちょっと気の滅入る旅でもあった。
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