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「私、父子家庭なの。幼稚園に入ってすぐ位に、お母さんが出て行っちゃったから」
小さな声で話す私に、彼は下りかけた階段から戻ってくる。
それを見て踊り場に座り込む私と、拳一つくらい空けて、その隣に座る彼。
「お母さんはね、仕事人間だったんだって。
優しいけれど少しのんびりしたお父さんと、ハキハキして何事も効率第一な人らしいお母さんが、なんでか恋に落ちて私が産まれたんだって。
ふふ、正反対の二人だったらしいのに、不思議だよね」
ホント、変なの。
正反対で惹かれ合って、正反対で共同生活は上手くいかなくて……
「結局、すれ違いとかなのかなってお父さんは言ってた。
お母さん、育児ノイローゼだったみたいで、もう無理ってある日突然出て行ったんだって。
で、そのまま離婚届が送られてきて、お母さんは戻って来なかったの」
膝を抱えるようにした手にギュッと力がこもって、売り子のエプロンスカートに皺が出来る。
「お母さん、弁護士なの。それで、今はココの学校の顧問弁護士」
膝に顎をのせて、体を小さく丸める私。
彼は、ただ黙って前を向いたまま、聞いてくれている。
「私が幼稚園に行ってる間に、お母さん出てったの。だから、なんにも分かんないまま。
最後に見たのは、いつも通りの【行ってらっしゃい】だったから。
なにが嫌だったの? なにが悪かったの?」
どうして、わたしを、すてたの?
浮かんだそれを、口には出さなかった。
「それで、ココに来たの。
ココに来たら…… 生徒になったら、逃げられないで会う事も出来るかなって。ふふ、馬鹿みたいだよね」
少しだけ、声が震えたけれど、彼は気付かないふりをしてくれている。
「あの夜、お母さんが出てった日の夜ね、お父さんが何度も何度も泣いて謝るの。
もうやめてって、泣かないでって言っても、泣いて泣いて止まらないの。
お父さんのせいで、お母さんが限界なのに気付かなかったって」
でも、なにがホントかなんて、本人にしか分からない。
本当にお父さんだけが悪いの? 私にはそう見えなかった。
だからーー
「会って、どうしたいのかまでは、正直分からない。最初は、ずっとお母さんの事を恨んでた。
会ったらなんて言ってやろうって。お父さんと二人でどれだけ大変だったかって」
よくも、捨ててくれたなって。
「でも、入学式の日に遠くの来賓席に座ってるのを見てから、分からなくなったの。向こうは全く気付いてなかったんだけどね」
遠くに見えたのは、少しだけ年を重ねた顔。
いつも、寝る前に本を読んでくれた顔。
一緒にホットケーキを焼いてくれた顔。
泣き止むまで、優しく歌ってくれた顔。
色んな顔が重なって、色んな思い出が浮かんで、色んな感情が綯い交ぜになって。私は、お母さんに声をかけられなかった。
手を伸ばせば届く距離まで来れたのに。その為に、あんなにあんなに頑張って入学したのに。
ーーそれ以上は、言葉に出来なかった。
膝にのせた顎を引いて、代わりにおでこを膝につける。
そんな私の後頭部を、そっと撫でてくれる手があった。
なんにも喋ってないのに、その手から聞こえてきた。
『よく頑張ったな』
って、優しい優しい彼の声が、聞こえたような気がしたんだ。
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