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足を滑らせて、転落したのだろう。地上へと吸い寄せられる中、望結は不思議と恐怖を感じていなかった。時の流れがひどく遅く感じ、望結は目を閉じてその時を受け入れようとした。そして衝撃とともに、木の枝葉が激しく乱れ飛んで全身を掠めたことまでは覚えている。
木か、と望結はか細い息を吐いた。呼気は口元を覆うマスクに阻まれ、室内に放たれることなく溶けて消える。
何年か前に、テレビで見たことがある話だ。子どもが誤って高所から転落するも、下にあった木がクッションの役割を果たしたおかげで一命を取り留めたという話だった。
当時何も考えずに聞き流していた話が、まさか自分の身に起こるとは思ってもみなかった。むしろ、起こってほしくなかった。あのまま生涯を終えていれば、居心地の悪い環境から解放されたかもしれない……。
視界の端から、若い女性が姿を現した。ゆっくりとした口調で何かを語りかけてきたが、望結には聞き取ることができなかった。とりあえず二、三度ほど瞬きをし、意識があることだけをアピールする。女性は再び何らかの言葉を口にすると、望結の周囲を忙しなく動き回りはじめた。その淀みない振る舞いから、この女性は看護師だろうと望結は悟った。
余計なことはしないで欲しいと伝えたかったが、声は出なかった。吐息がマスクを曇らせただけで、望結は力なく目を伏せた。
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