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イサは足を止めて辺りを見回したが、彼女の姿を捉えることはできなかった。右も左も分からない空間へと手を伸ばし、彼女の感触を求めて上下左右に大きく振る。イサの手が虚しく宙を切る中、少女の笑う声が空気に溶けて消えていった。
「お待たせ」
歌うような声が鮮明になると同時に、イサの手を柔らかな感触が包み込んだ。陽だまりのように優しい温もりが、白く血の気のない手へと滑り込むように流れ込んでくる。
イサは指を折り曲げて、温かい手をそっと握った。それに応えるかのように、相手も優しく握り返してくる。互いの手をしっかりと握り合うと、イサの腕は前へ前へと引っ張られ始めた。
イサは全身の力を抜いて、温もりの主にすべてを委ねた。足が地面を離れ、体が前のめりに傾いても一切抵抗はしない。流れに身を任せて宙を漂いながら、イサは腕の先へと顔を向けた。真っ白な視界の一部に淡い色が宿り、徐々に領域を広げて形を成していく。
少女はつやつやとした黒髪の一部を、後頭部で一つにまとめていた。彼女が一歩踏み出すたびに、下へ垂らした髪が左右に大きく揺れる。時折見える首やイサを掴む手は一目で分かるほど血色が良く、瑞々しい張りを持っていた。
イサの心からは、眠りにつく前に抱えていた鬱屈した気持ちは完全に消え失せていた。期待と高揚感に包まれながら、彼はゆっくりと口を開く。
――今日はどこに行くの?
声は全く出なかった。唇が虚しく上下し、弱々しい吐息が漏れ出ただけだった。特に驚きもしなければ、落胆もしない。声を出せないのは、今に始まったことではないからだ。
これに不便を感じたことは一度もない。夢の中なら言葉にせずとも彼女に伝わるし、現実では喋る必要性を感じない。胸の痛みに耐えてまで話したいことなど、イサは何一つ持っていなかった。
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