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――それじゃ駄目だ。
どこからか声が聞こえた気がして、望結は顔を上げた。
――大丈夫、君ならできる。
湧き水のように澄んだ印象の、幼さを残した少年の声だった。望結は周囲を見回したが、声の主らしき少年の姿は見当たらない。
――怖がらなくていい。僕が君の傍にいる。
芯の通った声が、望結の背中をそっと押した。望結は意を決して素早くハンカチを拾い上げ、すでに小さくなっていた男性の背中を追って駆け出す。
「あ、あの」
息を切らしながらも、望結は男性に声をかける。すぐに追いつくことはできたものの、それなりに重い荷物を背負って走ったため思いの外体力を使ってしまったらしい。
男性が足を止め、ゆっくりと振り返る。無精ひげを生やした岩のように無骨な顔が、静かに望結を見下ろした。浅黒い肌に沈んだ双眸は細くつり上がっていて、見られただけですくみ上がってしまうほどの迫力がある。
まるで山から下りてきた熊のようだ、と望結は思った。逃げ出したい気持ちをぐっと堪え、両手に包んだハンカチを男性に差し出す。
「これ……落としました」
男性の目が、静かにハンカチへと落とされた。大きな陰が望結に覆い被さり、周囲から音が引いていく。男性から発せられる威圧感に、望結の足がすくんだ。全身が強張って息が詰まり、心臓がいつにも増して早く鼓動を刻み始める。
ひどく長い数秒間を経て、男性の口が開かれ……その表情がふっと緩んだ。
「おお、本当だ! わざわざありがとね」
男性は望結の手から優しくハンカチ受け取り、歯を見せながらにっこりと笑った。固まる望結を気にする素振りも見せず、くるりと背を向けて歩いていく。大柄な体格のせいか一歩一歩が大きく、あっという間に遠くへと行ってしまった。
小さくなっていく男性の背中を見ながら、望結はほっと胸を撫で下ろした。元々、見知らぬ人に声をかけるのが大の苦手なのだ。あの声が聞こえなければ、声をかけようなどと思うことすらなかっただろう。
……あれは、何だったのだろうか。
気のせいだと片付けるにしては、妙にはっきりとした声だった。念のためにもう一度辺りを見回してみるが、やはりそれらしい人影は見当たらない。周囲を歩いているのは年配の男女や、幼い子どもを抱えた夫婦くらいだ。
考え事に集中し過ぎた望結は、足元に厚く積もった落ち葉に気づくことができなかった。濡れた地面に足を滑らせ、バランスを崩して石畳に膝を打ちつける。そのまま地面に倒れそうになり、望結は衝撃を覚悟して固く目を閉じ――
背後から肩へと伸びてきた手によって、望結の体は抱きとめられた。柔らかく温かい肌の感触とともに、ハーブのように甘く爽やかな匂いが鼻を抜ける。
「――大丈夫?」
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