烏賊の塩辛だけで生きていける

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 翌朝、朝餉の時間となった。夫は出勤時間が早いので、息子二人よりも早い時間に朝餉を取る。妻はそれよりも早く起きて朝食の準備をしている。夫が欠伸をしながら卓袱台に座ると、目の前には信じられない光景が広がっていた。 一杯のご飯の横に小鉢に入った烏賊の塩辛のみ。朝餉を一緒に取る妻の前にはご飯に鮭の切り身に赤だしの味噌汁に大根の切り干しと標準的な朝食が用意されていた。 「おい、これはなんだ」 「朝ごはんですが、それがなにか?」 「ご飯といかのしおからだけじゃないか」 「あら、あなた。ほら、昨日言っていたじゃないですか。いかのしおからとご飯さえあれば他はいらないって」 「確かに言ったけど」 「その要望にお答えしただけです」 夫は仏頂面でご飯の上に烏賊の塩辛を乗せながら食べていく。子供の頃から好きな激しい塩辛さが口の中に広がり仏頂面もあっと言う間にえびす顔へと変わる。 「おかわり」 夫は空になった茶碗を妻に差し出した。能面のような無表情な面構えで炊飯器に入ったご飯をよそう。夫はさすがに冗談がすぎると思いおかずの要求をした。 「おい、鮭の切り身、あるんだろ? 出してくれよ」 「ありますよ、子供たち二人の分は。あなたには烏賊の塩辛があるじゃないですか。冷蔵庫にございますのでご自由にどうぞ」 夫はご飯三杯と烏賊の塩辛一瓶で朝餉を終えた。そして、出勤時間となった。 「あなた、お弁当です」 「え? どうしたんだ藪から棒に」 妻が夫に差し出したものは弁当箱に小型のクーラーボックスであった。 「会社の近くのワンコインランチやコンビニ弁当にも飽き飽きしてるでしょう。これから毎日お弁当を作りますのでそのつもりで」 「おう、そうか。すまないな」 夫は会社で昼食をとろうとした。いつもは妻の言う通りにワンコインランチやコンビニ弁当などで過ごしているのだが、今日は弁当があると言うことで自分の席で弁当箱を広げていた。 「お、今日は愛妻弁当ですか。羨ましい」 同僚はいつものワンコインランチの店へと行ってしまった。その斜向かいの席では別の同僚が愛妻弁当に舌鼓を打っている、ちなみに同期で入った飲み友達も兼ねた生真面目な同僚である。 弁当箱を広げると、そこは白い平原。黒ごまも梅干しすらも無く、ご飯がぎっしりと詰められているだけであった。何なんだこの弁当は…… 夫は訝しげな顔をしながら小型のクーラーボックスを開けた。中にはぽつんと烏賊の塩辛の瓶が鎮座しているのであった。 「弁当までいかのしおからとは…… ふざけやがって」 不満を垂れつつも夫はご飯と瓶半分を食べて、昼食を終えた。こんなことならいつものワンコインランチの店に行けばよかったとうらぶれた気分になりながら午後の仕事に入るのであった。 夫が家に帰り、玄関を開けた瞬間に肉の焼ける薫りがした。いつもならカーテンや壁に匂いがつくから嫌がるのに珍しいな。夫はそんなことを思いながら卓袱台に座った。卓袱台の中央には焼けた肉野菜の乗ったホットプレートが乗せられていた。 「あらあなた、おかえりなさい。ご飯あるわよ」 ああ、昨日のことは許してくれたのか。夫は肉に箸を伸ばそうとした、その瞬間、妻は夫の前にご飯の入った茶碗と、烏賊の塩辛の瓶を置いた。 「あなたはこっちです」 「おい、ふざけるのも」 「あら、いかのしおから以外何もいらないと言ったのはあなたですよ」 妻はホットプレートを息子たち二人の方に寄せる。 「今日はご飯いっぱい炊いてありますので。そうそう、いかのしおからも追加しておきました」 夫は虚しくご飯と烏賊の塩辛を口に入れる。美味しいことは美味しいのだが、気持ちは満たされない、それは空腹よりも辛い何かであった。 妻と息子二人は焼き肉に舌鼓を打つ…… 肉の焼ける匂いと焼肉のタレの甘い匂いが夫の鼻腔へと入る、思わずホットプレートに手を伸ばせば妻の平手打ちが手の甲に炸裂する。 どうして俺がこんな目に…… 夫は涙目で烏賊の塩辛に舌鼓を打つ…… おいしいなぁ!
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