甘露なる憎悪

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 姉夫婦の葬式では、一人の赤ん坊が大声で泣いていた。その赤ん坊を抱き、私は葬儀場を出た。  姉とはそこまで仲がよくなかった。八方美人であり、男性を惹き付ける容姿をした姉は私とは違う生き物に見えていたからだ。  かたや、私は十人並みの容姿に加えて他人が苦手だった。代わりと言ってはなんだが勉強だけは頑張った。県内でも有名な高校に進学し、上場企業に就職することもできた。  仕事に忙殺される中ではあったが、姉の結婚式には出席し、妊娠の報告も受けた。徐々に姉との溝が埋まっていくのを感じながら、私は自分の日常を続けた。  しかし、その日私は出会った。出会ってしまった。 「名前、どうしようかなって思ってるの」  なんて言いながら、姉は赤ん坊を抱きながら泣いていた。赤ん坊は待望の第一子であり、私にとっても他人だとは思えない赤ん坊であった。  小さく、柔らかく、とても弱々しい。けれど人差し指を差し出すと、私の指をきゅっと精一杯の力で掴むのだ。それが愛おしく、それがたまらなく悔しかった。 「二人の名前、一文字ずつ取ったらいいんじゃないかな」  と私が言うと、姉は嬉しそうに笑った。沸々と、胃のあたりから熱いものがこみ上げてくるようだった。  家に帰ってからもそう、仕事をしていてもそう、赤ん坊のことが忘れられなかった。私が自分の子供を産むことがあるかどうかと自問自答してみるが答えは曖昧だ。今まで一度も恋人など作ったことはない。今後その可能性があるかさえもわからない。  そう考えると、どうしても納得がいかなかったのだ。  時折、姉夫婦は両親に子供を預けてデートをすることがある。私は実家ぐらしであるため、当然赤ん坊の面倒を見る。癒やしの時間であり、非常に楽しい時間でもあった。  その日も姉は赤ん坊を預けに来た。姉夫婦は十分程度両親とお喋りをしたあとででかけていった。  それから一時間後、一本の電話が鳴った。電話を取った母の顔が青く染まる。 「はい、はい。わかりました、すぐに行きます」  電話を終えた母は震えていた。父が話かけると、姉が交通事故に遭ったとのことだった。  母を支えながら病院へと向かったが、姉夫婦はすでに帰らぬ人となっていた。母は泣き崩れ、父は悔しそうに下唇を噛んでいた。  姉の旦那が運転する車が赤信号に突っ込み、走ってくるトラックに衝突したということだった。旦那は元々不眠症気味であり睡眠薬を常用していた。その睡眠薬のせいで居眠り運転をしたのではないか、という結論に至った。  赤ん坊はうちの両親が引き取ることになった。姉の旦那の両親は、父が病気で母が働き詰めであったためだ。こうして、私の元の赤ん坊がやってきた。  葬儀が一段落し、私は茶の間で赤ん坊を抱いていた。 「その子、アナタにそっくりね」  と、母が言った。 「そうかな」  私が返す。 「目元がそっくりよ。それも当然かもしれないけど」  母は悲しそうに目を伏せた。  私に似ているのは当然のこと。この子は私の子同然だ。 「よく引き受けたわね」 「姉さんの頼みだったからね」 「アナタたち、そこまで仲良くなかったと思うけど?」 「頼めるのなんて私くらいしかいなかったから仕方ないんじゃない? それに、姉夫婦と両親から土下座なんてされたら引き受けるしかないでしょ」  赤ん坊が産まれる一年ほど前、私は姉に懇願されたのだ。だから姉の妊娠、出産を手伝うことにした。  しかし、いざ赤ん坊を目の当たりにして心変わりしてしまったのだ。これは私の子供だ。私がいなければ産まれなかったのだ。私はこの先出産するかどうかなどわからない。なのに、身勝手に生きてきた姉が子を設けているのが許せなかった。  仲が悪かった頃の記憶が蘇ってしまった。  年が七つ離れているから、喧嘩をしても腕っぷしでは叶わなかった。ようやく買ってもらったおもちゃも姉に壊された。洋服はほとんど姉のお下がり。学生時代は勝手に財布から金を抜き取られた。姉が夕食を作ると言った挙げ句、私の分だけは用意されていなかった。  そんな姉が私に土下座したのだ。それは気持ちよかったが、それだけでは気持ちが収まらなかった。 「子宮性不妊症、か」  自分でも口端が持ち上がるのがわかった。  これでよかったのだ。こうして我が子が手のうちにある。元々妊娠ができない身体だったのだから、この子が私の手に抱かれているのは正しいことなのだ。 「ちゃんと育ててあげないとね」  母が涙ながらにそう言った。私の考えなど知るよりもなく、ただただ姉の死に悲しみ、この子の身を案じている涙だったのだろう。 「そうだね。私が母親になるよ」  子供の目の前に指をかざすと、その子が私の指をきゅっと掴んだ。小さな体で精一杯生きようとする赤ん坊が、なにかを私に訴えかけてきているように感じてしまった。  思わず涙がこみ上げてきた。  本当にこれでよかったのか。よかったに違いないという私と、いいはずがないという私が叱責し合っているようだった。  私怨を果たした私と、知らないうちに両親を失ったこの子。この子が大きくなったあとで私は良心の呵責に耐えられるだろうか。そもそも良心など残っているだろうか。 「大丈夫? 顔、真っ青よ?」  母の言葉に、弾かれるように顔を上げた。 「だ、大丈夫」  その瞬間、赤ん坊が泣き出してしまった。強く抱きしめ過ぎたのかもしれない。  私は赤ん坊をあやしながら、これからどうやって生きていこうかと考えていた。生きていくだけならば仕事を続けていけばいい。お金さえあれば食うには困らない。けれど、この気持ちと向き合っていくことができるだろうか。赤ん坊の、この純粋無垢な瞳を見続けていられるだろうか。  いや、今は考えなくてもいい。この子を育てることだけを見据えていればいい。そうすればきっと明るい未来が待っているはずだ。  あの日、二人にお茶を出したのは私だった。細工をするのは難しくなかった。  私は仄暗い影から顔を背けた。これで正しかったのだと自分に言い聞かせ、正当化し続けていくことを決めたのだ。 「早く、大きくなあれ」  人差し指で赤ん坊の頬をつついた。この子の母は、私であるべきなのだ。 了
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