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「もう、良いわ……ありがとう」
歌織は二人きりのバックヤードで、溜め息混じりに囁いた。
「もう大丈夫なんですか?」
「こんなおっきなの、入れたまんまにしておけないじゃない」
……それは、性的な意味ですか。
そう尋ねたくなる様な台詞を、山本歌織は一日一度は自分に吐く。
営業スマイルを保ちながら、安斎透はそう思った。
別に、嬉しくは無い。それが意図的な物では無ければ無いほど、「お前など男として見て居ない」と言われているのに等しいし、第一そんな風に聞こえてしまうのは、自分の過剰な妄想のせいでしか無いからだ。
「それにしても、立派なアクアマリンね……車、買えるんじゃない?」
「ですね。」
スーツのポケットから白布に包んだアクアマリンを出した香織は、安斎の差し出した手の上に乗せた。安斎の下らぬミスで不興を買ってしまった客の城山を説得するために私物をひっくり返していた歌織に、安斎が貸したものだ。
もちろん、車は買える。しかも、歌織の思っている様な車なら、二、三台は買えてしまうかもしれない。
この、サンタマリアアクアマリンの市場価値は、他のアクアマリンよりも遥かに高い。しかも組成の似たアフリカ産ではなく、正真正銘の今は無きサンタマリア鉱山産だ。
この手のひらに乗る程の結晶は、価値の低い同種の異なる色の石を焼いてエンハンスした物と比べると、天と地以上に価値の差が有る。
「……歌織さんは、アクアマリンみたいですね」
美しく冷たく怜悧で真っ直ぐでダイナミックで特別で、不純物を含まない。
「ありがと。整形はしてないわよ」
もちろんだろう。ノンエンハンスドの、滅多に無い極上の天然物だ。
「それにしても、こんな原石持ってるなんて……」
歌織に不審げに呟かれて、ひやりとする。
山本一族の中でも、安斎の正体を知っているのは社長や山本恵祐を初めとする、役員の男性だけである。修行が花嫁選びを兼ねているという理由で、女性には秘匿されている。「女は口が軽いから」という甚だ失礼かつ時代錯誤な言い分で、既婚女性である副社長や常務にも知らされていない──もっとも、花嫁選びという話自体が、既に時代錯誤なのではあるが。
「あなた、城山様と意外と話が合うんじゃないの?」
「あー……」
気になったのはそっちか。と、一気に気が抜けた。
……そうですね。
あんな出会いじゃ、なかったら。
そう答えても、山本香織は首をひねるだけだろう。連れの北浦愛香に失礼な事を言った安斎に、人が変わった様に恫喝めいた事をして来た城山雪彦を、香織は見ては居なかったのだから。
「……そろそろ、お茶の時間が落ち着かれる頃なんじゃ無いですか?」
「あ。そうね。行きましょ」
安斎は、アクアマリンをポケットに仕舞った。
そして、山本歌織に続いて、城山雪彦と北浦愛香の待つ応接室に戻ったのだった。
【終】
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