文字も食べる

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今からは年号が3つくらい前の時代のある日のこと。 汽車の中で本を読む中年男性がいた。男性は腹が減っていた。食べ物はなにもなかった。そこにあるのは、暇をもて余すために手に持っていた一冊の本だけだ。 男性は、紙を食べることができると知っていた。でも、あまり美味しくないし、栄養にもならないし、消化に悪いから誰も食べなかっただけ。 しかし、彼はとてもとても腹が減っていた。 ちなみに人間などは腹が減ると正常な判断ができないときがある。 空腹に耐えかねて、男性は本に手をかざした。 すると、どうだろう。本からするすると文字が浮かび上がり、男性の手に乗ったではないか。 まさかと思ったが、彼はそれを口にした。 旨かった。今まで食べたどの食べ物よりも旨かった。 身体中にすみわたる爽やかな味。幼いころに食べたことのある懐かしい味と、今まで食べたことのない新しい味がした。 彼が食べた本は昔から人間たちに語り継がれる名作だった。 それはもう、夢中で食べた。周りの人間は彼が気が狂ったのだと思って見ていたが、彼の幸せそうな顔につられて、自分が持っている本に手をかざしてみた。 内容によって旨さが変わるということに人間が気がつくまでに時間はかからなかった。 もとから人間に備わっていた能力だったのか、はたまた神から授かった超能力の一瞬なのか、人間たちはこの力を手にいれ、文字までも食するようになった。 名作本は味がいいので重版される。太宰治や夏目漱石なんかが最たる例だ。美味しいだけでなく渋みも苦味もあって、一度食べたものを虜にした。 新聞は不人気だった。政治家の不正や大災害。人間がすぐに死んでしまう記事は苦味が強くて受け入れがたい。時にそんな味を好む猛者もいたが、幸せなものの方が好きに決まっている。 美味しいものを食べるために小説家が増えた。たくさん本が出版されるようになり、飽和状態になった。 味は次第にマンネリ化してきた。人間たちは飽きていた。これなら醤油や味噌や塩や豚骨味の方がいくらかましだと思った。
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