02

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「そこで何をしているんだい?」  なるべく柔らかな声で話しかけたつもりだったが、黒い塊――小さな体躯の『オオカミ』は驚いたのか、飛び上がってこちらを見上げてきた。黒い塊に見えたのは、耳も尾も、背まで覆う長い髪も服も、すべてが黒かったからだ。  顔のほとんどを覆い隠す長い髪のはざまから見える、緑にオレンジがかった不思議な色合いの瞳に目を惹かれた。まだ年若いことは分かるが、長い前髪が邪魔で顔の造形はよく分からない。怯えたように伏せられた黒い耳――それから『オオカミ』の特徴である黒く長い尾。だが、他の『オオカミ』たちの尾が太くふわふわとしているのに比べて、目の前にいる『オオカミ』の尾はみすぼらしいといっていいものだった。ふわっとした『オオカミ』独特の服を纏ってはいるが、そこから覗く手足も痩せている。 「ああ、ごめん。驚かせちゃったよね。はじめまして、オレはコルって言います。アスラルから来たんだよ。君は?」  まだ驚きに目を丸くしたままの、小柄な黒い『オオカミ』の前でゆっくりと膝をついて視線を下げると、後ろから息を飲む気配がした。『オオカミ』たちにとって膝をつくのは敬礼の意味がある。序列の最下位であるオメガに膝をつく、という行為に神官たちは驚いたのだろう。  黒い『オオカミ』はめずらしい色の目を瞬かせると、それからおずおずと後退った。 「は……はじめまして。な、なまえは……な、なしです」  もどりながらもゆっくりとした優しい声は少年のものだ。少女かと思っていたのもあるが、それよりも黒い『オオカミ』の少年が何と名乗ったのか分からなくてコルは首を傾げた。 「コル殿。調べた限りのところではありますが、オメガたちは……王と交わらない限り名前を与えられることはなかったようです。この子は長いこと病に臥せっていて、到底王の閨に呼ばれるような身体では……」  一人近づいていたラケが、コルの心のうちの疑問が聞こえたとばかりに説明してきた。コルが自身を王だと名乗らなかったのを気にかけたのか、名前で呼んでくる。  ――名無し。  黒い『オオカミ』は、同じオメガであるノクスよりも発育が悪く幼い印象を受けるが、まったくの子どもにも見えない。オメガたちは通常十四歳前後で発情期を迎えるというが、王の閨に呼ばれていないということはまだ迎えていないということだろう。   「名無しでは呼び辛いな。……そうだな、オリハ――というのはどうだ?」 「……オリハ。……ぼくの、なまえ?」  こちらを見てきたかと思うと、オリハと勝手にコルが名付けた黒い『オオカミ』はようやく微笑んだ。長い黒髪に隠されているのがもったいないように思えたのだろうか。コルの手が勝手に動いて、オリハの髪をかき上げる。顔が近づいた時、ふわりと香った優しい匂いにコルは目を細めた。長い髪の下には思っていた以上に整った面立ちが隠れていたが、病の後だからか目の下には隈があり、頬はやつれている。 「コル、さま。いい匂いがします」  オリハがそう小さく呟くのが聞こえて、コルはぞくりとするものを感じた。それは心の奥底から熱が生まれたような、初めて覚える感情だった。 「客人に無礼だろうが! 離れなさい!!」  唐突に罵声が降りかかってきたかと思うと、オリハはコルから引きはがされて大きくよろめき、地面に転がってしまった。細く整えられた木の鞭が容赦なく黒い『オオカミ』の背を打つ。鞭で打たれても少年はうめき声一つ上げず身を縮こませると、両腕を頭の上で交差させて自分の身を守ろうとしている。――ぶたれることに、慣れている動作だった。 「私の方が近づいたのだ。この子は何もしていないだろう、止めなさい。……だが、これで神殿とやらがあってはいけないことが良く分かった。身寄りのない者はアスラルで引き取ることも考えている。王がいなくなるのなら、オメガは不要なのだろう?」 「え? は、はあ……」  オリハを打擲していた神官の一人がコルの制止に動揺する。今まで彼らを止める者は誰一人いなかったのだ。  ラケは黙ってそのやり取りを見ていたが、オリハに手を貸そうかと動くよりも先に、コルがオリハを助け起こして己の外套を着せていた。冬季ではないが、陽だまりの庭から外に出れば風は冷たい。コルはオリハを抱き上げると、ノクスよりも軽いその体が痛々しく思えた。 「あ、ありがとうございます、コルさま」 「コルって呼び捨てでいいよ。とにかく、こんなところからはとっとと出よう」  抱き上げられたことも経験がないのか、オリハはそわそわとコルの腕の中で手をどこに置くかを悩んでいたようだったが、コルが歩き出すとぎゅっとコルの上着を握りしめる。その少し震えている手が可愛らしく思えて、コルは無意識に微笑を浮かべたのだった。
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