426人が本棚に入れています
本棚に追加
「――あれは」
その時、この二階の窓から、家の門の外に人影が現れるのが見えた。雨を避けるように灰色の外套を頭からすっぽり被ったその人は、誰かを探すように顔を上げて――。次の瞬間、目が合った。藍色の髪と瞳。縁のない丸い眼鏡――あぁ、間違いない、ナサニエル先生だ!
僕は部屋を飛び出して階段を駆け下りた。この時間に僕の家を訪れるなんて、理由は一つしか思い当たらない。遂にこの時が来てしまったのだ……。あぁ、ユリア、君は今一体どんな気持ちでいるんだろう。
「エリオット!何処へ行くんだ!今夜はホークソンとの会合だと言ってあるだろう!?」
父さんの罵声が僕の背中に突き刺さる。でも、それどころじゃないんだ。本当に、それどころじゃない。ごめんね父さん。僕はこの家より――ユリアの方が大切だ。
「先生!」
「――エリオット」
息を切らせた僕の姿に、眼鏡の奥の先生の瞳が微かに細められる。言わずとも、伝わっているとわかったのだろう。先生は神妙な面持ちのまま外套をさっと脱ぎ去ると、僕の肩に羽織らせた。
「彼女から……あなたにはまだ伝えないで欲しいと頼まれました。けれど私もずっと傍にいてあげられる訳じゃない。次の患者が居ますから」
「――はい」
「この雨で道は酷くぬかるんでいます。足を取られないように気をつけるのですよ」
「感謝します、先生」
それだけ言って、僕は走り出した。父さんの声が小さくなっていく。先生が責められなければいいけれど。
あぁ、それにしたってユリア――君はこんなときでも僕に気を遣おうとしたのか。この前伝えたばかりなのに。どんなときも僕を君の傍に居させて欲しいって――そう、言ったばかりなのに。
僕はぬかるんだ地面をひたすらに蹴って進んでいく。この雨だ。人気は少ない。これなら誰にも見られることはないだろう。僕が町から出て行くところを、きっと誰も見ていない。僕は堂々と東の門を抜けて草原の丘を登って行った。途中何度も足を滑らせそうになりながら、それでも速度は緩めなかった。早く――早く――一刻も早く君の元へ駆けつけたくて。
最初のコメントを投稿しよう!