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冷たい風が頬をなで、夜の空気に溶けていった。
どこからか夕食の美味しそうな匂いが漂ってくる。
いつもの亜衣香ならクイズ感覚でメニューを挙げていくところだ。けれど今はそんな気分ではない。静かな住宅街をふたりはしばらく無言で歩いた。
道沿いに並ぶ庭はどこも綺麗に手入れされていた。庭木や花壇のあちこちにハロウィンモチーフのピックやリースが飾られている。
門灯に照らされ、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がって見える様はどこか幻想的だった。モチーフがモチーフだけに、妖精たちが嗤い囁きながら身を潜めていそうな気さえする。
亜衣香はむすっと唇を引き結んだ。そんなことを言おうものなら再び溜息が飛んでくるか、頭を抱えられるに決まっている。これ以上、郁に子どもっぽいと思われてはたまらない。
「そうか、今日はハロウィンだっけ……」
耳に届いた小さな声に横目でチラリと隣を窺う。郁も亜衣香と同じく、趣向を凝らした庭に見入っているようだった。端整な横顔が「お伽噺の世界に迷い込んだようだな」と呟くのを見て、亜衣香はぽかんと口を開けた。
「意外……郁もそんなふうに思ったりするのね」
「感化されたかな、そういうのが好きな子がずっと身近にいたから」
嫌いじゃないよと苦笑を滲ませる瞳。そこには失望も咎める色も見当たらなかった。亜衣香の胸にほんのり明かりが灯る。
亜衣香は「ねえ、」と軽やかに郁の前に出た。
「トリックオアトリート!」
郁はきょとんと足を止めた。どうやら魔法の呪文は唐突すぎたようだ。亜衣香はぷっと頬を膨らませた。
「トリックオアトリート。ハロウィンと言えばこれでしょ?」
「あ、ああ……、お菓子を貰うあれか」
「そうそう」
満足そうに口角を上げ、手を差し出す。お祭りごとが好きな日本人にとって軽い調子で使えるこの言葉はもはや大人子ども関係なく使える合言葉のようなものだろう。
理解した様子の郁は、それでも眉は顰めたままで鞄や服のポケットを探り出した。
ややあって出てきたのは手の平サイズの四角くて薄いケース──ミントタブレットだった。はいと手渡されたそれを亜衣香はまじまじと観察する。軽く振ればカシャカシャと軽快な音がした。ケース内は余裕のある空間になっているらしい。
「食べかけ?」
「うん、眠気覚まし」
「郁が眠気覚ましに食べるって、めちゃくちゃカライやつじゃない……」
唇を尖らせる亜衣香に郁は肩を竦めてみせる。
あらためてパッケージに目を落とした亜衣香は、表記されたスーパーミントの文字を指でなぞった。食べたことはなかったし今まで手にしたこともなかったけれど、確実に食べられないことだけはわかる。
「このシリーズはオレンジが好きよ。新商品のミルクミントも気になってるけど」
「ミルクか。そういえば最上段に並んでたな」
「えっ、そっちがよかった! なんでそれにしなかったの?」
「……学校はお菓子を持っていくところじゃないだろう」
郁の声がすっと低まった。
また説教が始まりそうな雰囲気を察し、亜衣香は慌ててその通りだと同調した。「これで我慢してあげる!」とミントタブレットをポケットにしまいこむ。
「ミルクフレーバーが好きなのは知ってるよ。昔からミルクキャンディ好きだもんな」
「……え?」
「で、そのシリーズならオレンジが好き?」
振り向いた先には優しい瞳があった。
亜衣香は頬が熱くなるのを実感した。きっと今、自分の顔は真っ赤になってることだろう。あたりが暗くて本当に助かった。
覚えておくよと笑う彼に、小さくうんと頷いた。
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