命尽きる日

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命尽きる日

 目を開く。 「ケリャ?」  寝台の上、我が王妃、ジャノルがそこにいた。息子らが生まれて以来、肉がついた体。 「ジャノル? 起きていて良いのか」  ここ最近は、寝てばかりいた。  身体がずっと弱くなり、ゆっくりと歩くので精いっぱいで。私はあの頃と同じまま、あの頃と変わらぬ年のまま、生きていたというのに。 「はい。今日は、気分が良いのです」  目じりにしわを寄せて微笑んだ彼に、嬉しくなる。そうか、それならよかった。 「……侍従らは? シーアさえ、いないではないか」  人気のない室内に、我は首を傾げる。するとジャノルがにっこりと微笑んで、こう言った。 「私が下がっていてほしいと頼んだのです。もう、息子たるアーリャも大きくなり、娘たるエレナも仕事をするようになりました。アーリャはつがいを見つけ、その幼かったエレでさえ公務のために外出するようになったのです。私たちが心配する方が、皆に不作法でしょう」 「……そうか、そうだな」  頷いて、私はジャノルを腕に抱いた。  これが夢だと、知っていた。ジャノルは……息子たるアーリャが見つけた古鳥族のエレ、彼が成長して公務をし始めるよりもっと早い頃に死んでいる。  アーリャが正式に我が後継者として指名された年に、天寿を全うしたのだ。我が腕の中で、静かに死んでいったのだ。小さくなり、子供らが受けた世話を今度は自らが受けて、それでもなお気高く、我と国を案じて死んでいった。  痩せた腕を覚えている。  こけた頬を、覚えている。  白髪の混じった髪を、覚えている。  どうしてそれを、忘れられよう。  だからこれは、夢なのだ。我と同様にジャノルが永く生きた、ずっと思い描いていた夢……。  誰にも告げたことはない。  誰にも言ったことはない。  もし言ったとしたら……それはきっと、ジャノル、我が妃だけだ。 「時にジャノル。今は夜更けぞ、本当に……起きていて良いのか」  月明かりが、部屋の中に広がる。あの灰銀に、赤の混じる、何ともいえぬ毛並みに指を滑らせる。  そのどれも、あの日に失った全てだった。 「ケリャ。アマーシャの、婚礼に使う白き花の、最も美しい日を知っていますか?」 「いや……知らぬな。盛りは夏だと聞き及んでいるが、日付まで決まっているのか」 「はい。一緒に見に行きませんか、そのために侍従らを下がらせたようなものなのですから」  微笑むのを見て、頷いていた。  夢なのだ。我が願うことばかり、ジャノルが言うのも無理はない。 「そうだな。折角だ、往くとしよう」  その体を抱き上げて、外へ出る。庭園は露に濡れ、夜の風が吹いていた。  美しい花々が咲き乱れ、あちこちにほろほろと花弁が散っている。  燦然と輝くアマーシャの花は、白さをますます増して、何とも美しかった。月の光をそのまま丹念に、1枚ずつ花弁とすれば、このように美しくなるのだろう。 「思えば、長い日々でした」 「ああ」 「わたくしは、俺は。結局のところ、つがいと巡り合うことはありませんでしたが……」  嬉しそうに、ジャノルが左手を掲げる。そこには我が送った、赤金色の指輪があった。 「そこに何一つの後悔もございませぬ」 「……そうか」  美しい月が見える。アマーシャの花の香りを浴びて、我とジャノルは並んでそこに立った。在りし日、初めて二人でこの花を見た日を、思い出す。 「陛下。ケリャ。ごめんなさい、たくさん……待たせました」  目を見開く。  我がこのような言葉、彼に望んでいただろうか。我が妃に、望んでしまったのだろうか。泣くことなどついぞしてこなかったが、どうにも目頭が熱くなる。 「……いいや、待ってなどおらぬよ、我が妃よ。待たせたのだ、我が。数百年も、ずっと」  抱きしめる。  そこには、乾いた感触だけがある。当然だ、我はただ一人、この寝台に寝ていたのだから。 「父上」 「アーリャ、エレナ。それから、エレ」  うっすらと、我は目を開けた。  ジャノルはいない。ここにはいない。あの夢のうつつ、夏の先、美しい花の先に待っている。死の香りを打ち消すための、むせかえるほどのアマーシャの花が、我の枕元で揺れていた。  良き旅路だ。 「後を頼む」  我が子らが、三人そろって頷くのが見えた。  遠く、ジャノルが小さく笑いながら、我を呼ぶ声を聴いた気がした。
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