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白花の守人
翼あるもの、鱗あるもの、毛皮纏うもの、その他大勢。獣の姿を持つ獣人が暮らす大陸、シデナトヒの中央近く。
稀なる一角獣族が治める国、アバール。
そこに私は、目のない一族。
蝙蝠族の一人として生まれ落ち、王宮仕えの身となった。
ケリャ王のそば、ジャノル王妃の後ろ。私のいる場所は、王宮でも酷く重要な箇所ばかりだ。
しかし、蝙蝠族は、目を持たぬ。
故に色彩はなく、香りと人に言語化できぬような世界が、私を包むすべてだった。
王が星を褒めたとき、私はそれを見ることはない。
王妃が太陽に目を細める時、私はそれを知ることはない。
我ら蝙蝠族にとって、視界という概念はなく、光を知ることは終ぞない。
それは、王宮にて仕える、己にも同じこと。
右から湾曲婉曲直角の壁における音の反射と反響の繰り返しが混ざり合う世界の内側を陥没させるように人が表れる瞬間のことを、えてして、言語化するのは難しい。
「交代の時間か」
返事はないが、そうだ、という意志表示が返ってくる。
我々、蝙蝠族は本来、一般的な獣人が言うところの言葉を使ったコミュニケーションには疎い。むしろ、海に暮らす入鹿族や鯨族などの方が、よほど話しやすい。
しかし、私は陛下の直属であり、直接、話をせねばならぬことが多い。
それに蝙蝠族の中では長く生きた方だから、人の視界を想像して、それを踏まえた説明をすることだって、造作もないのだ。陛下にも、そこを高く買っていただけている。
王妃の部屋を守り、王の私事を承るのは、一族の中でも私だけである。
足裏の爪を使って天井に立つ。陛下の寝室には、王妃と陛下の優しい声だけが響いている。
「では、そのように」
「ああ。……アーリャはどうだった? エレナは? エレはどうだ」
普段は執務で出会えぬ、お二人の御子と、将来の王妃となる予定を持つアレハの地より来た少年を案じる陛下に、王妃が優しく答えた。
アーリャ王子は今年で二十八歳になる。
エレナ姫は、今年で二十三歳になる。
そして、アーリャ王子のつがいであるエレ様は、まだ五つだ。
「アーリャは今日も張り切って授業を受けておりましたよ、勉学の速さはケリャ譲りのようです。エレナはラノルが来ていたので、語学の実地訓練に向かいました。それからエレは、わたくしと共に過ごしました。過ごすだけでも、学ぶことは多いもの。何より、あの子はまだまだ幼いのですから」
くすくすと笑う王妃の声が、天井に反射してくるくると舞い踊る。
そうか、エレ殿は王妃から見ても、まだまだ幼いという年齢なのか。だからやたらと、心音が美しく、濁りなく聞こえたのだ。
すん、と呼吸をすると、香りがした。
王妃のか、それとも王のものか。
お二人に仕えるようになってから、ずっと私が感じてきた香りだ。しかしお二人の香りかどうかと言われると、判断が付かない。
それゆえ、私はこの香りを、アマーシャの花だと思っている。お二人にとって大切なこの花は、寝所に飾られることが多い。きっと侍従の誰ぞかが、お二人のために飾っているのだろう。
「まるで、アーリャやエレナが生まれたときのようだな」
「当たり前です。もう一人、突然、子が増えたのですよ。楽しくもなりますとも」
「子育ては戦場と聞いたが」
「苦戦しつつも、またとない日々なのです」
王妃が笑うのが、分かる。
王妃の声は優しく反射し、天井で三つに分かれ、それぞれ部屋の四隅へ散った。
「今日と同じことを、子は致しませぬ。それがどんなに同じに見えても、それは成長した子がすること。それは二度とないことなのです。それを毎日、毎日、見守るのです。エレの母君からこのような機会を奪ったこと、心苦しく思うほどなのですよ」
「……そうか」
どこか物悲しく呟いた陛下の声は、床に消えていった。
それが理由かは知らないが、陛下はこの夜以来、王子と姫のみならず、エレ様の元にも足繫く通うようになられた。それを裏から見守るのは楽しいし、何より、彼らの健やかな成長が感じ取れる。
少なくとも、ここは私にとって天職だった。
やがて私が青年ではなくなり、王妃が身罷られたその翌年。私が王宮勤めの任を解かれ、市井に暮らす日々がやってきた。
最後に何かしていきたいことはないか、と、長く見守ってきたアーリャ王子に尋ねられた。
「では、一度。アマーシャの花にお行き会いしたいのです」
「アマーシャ? 何故だ」
「実は植物と言うのは、我々にとって、見ることがとても難しいものなのです。形は分かりますが、それ以上のことは近づかねばなりませぬ。両陛下は特に愛された花、最後に挨拶をしていきたいのです」
「……ふむ。ならば、ここからすぐの庭園が良かろう、今の時期は特に美しい」
直々に案内され、私はとうとう、アマーシャの花の前へ立ったようだ。
花は、形が分かるが、それ以上のことを何も教えてくれない。しかし、私は、目の前へ立って初めて、そのかぐわしき香りに気が付いた。
(ああ、これは……)
これは、王妃と陛下の香りだ。
私がアマーシャの花にずっと焦がれた理由は、お二人にそっくりだったからなのだ。
「……陛下」
私は蝙蝠族。
目のない私に、涙という概念は、ない。
「長きにわたる、王家への、そして何より父と母への忠誠。大義であった」
アーリャ殿下の手が、私に何かを握らせる。
「アマーシャの苗だ。母が父より贈られた、最初の一株だ。お前に託したい」
「殿下。いえ……アーリャ陛下……」
「ジギラ、蝙蝠族が栄えある忠義の者。そなたにこそ、この白き花の守護者は、ふさわしかろう」
私は胸に、苗を抱く。美しい、と、その時思った。
私はジギラ。
蝙蝠族の、老いた者。今は市井にて、白き花を、守り継ぐもの。
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