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「天体観測の夜。そこで、と考えてます」
「ふーん。ま、頑張りなさいな」
不器用なくせしてロマンチックな、とまた少し毒を吐く小山に、返す言葉も見当たらず、やめてくださいよ、と照れ隠しの意味で苦笑いをして、明は部室をあとにした。
◇
辺りの様子がおかしい。一面、うっすらと赤黒い霧に包まれている。しかし、それを不思議に思うこともなく、明は自然にここが地獄だと認識していた。
前方に目を向けると、三つ首の獰猛な顔をした犬の化け物――番犬「ケルベロス」が今まさに牙を剥いて明に襲いかかろうとしていた。この前の神話の続き、とすぐに気づいた明は迷わずに手に持っていた竪琴を奏でた。一度もそんなものを扱った記憶はないが、自然に手が動いた。竪琴の音色を聴いた瞬間、ケルベロスは眠りに落ちた。ケルベロスの巨体を越えた先には、辺りを包む霧と同様に赤黒い池が流れていた。そのすぐ近くには、一艘の渡し船とその乗り場があった。
船を繋ぎ止めているその乗り場には一人のみすぼらしい老人――カロンが立っていた。カロンに、渡し船に乗せてもらうにはその料金を支払わねばならない。しかし、当然ながらそんな持ち合わせはない。
「渡し賃を持たないものを乗せるわけにはいかぬ、去れ」
「今持っているものと言えば、この竪琴しかないのです。何とか乗せてはもらえないでしょうか?」
「くどい!乗せてほしければ渡し賃をよこしなさい」
食い下がると一喝されてしまった。仕方なく、明は竪琴を奏でた。最初は見向きもしなかったカロンだが、やがてその音色に聞き入っていた。
「なぜお前はそうまでして船に乗ろうとするのだ?」
やおらカロンはそう尋ねた。一瞬答えに窮した明だったが、ケルベロスと対峙したとき、自然に手が動いたように、今度は口が自然と、滑らかに言葉を紡いだ。
「私は、私の妻を追いかけてここまできたのです」
「なんのために?ここは地獄、本来は生者が足を踏み入れることは許されない」
――と、言われてもなぁ。俺だっていきなりこんな夢の中に放り込まれてわけがわからないよ。
心の中でそうぼやくが、それを口にするわけにもいかない。それに、今度もまた自然に答えられそうにはなかった。想像しながら答えるしかなかった。例えば、死んでしまったオルフェウスの妻、エウルディケではなく、近しい誰かを追いかけたのだとしたら?
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