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キュルキュル、キュルキュルあの子は嘘つきな私を責める。
知らんふりされて、八つ当たりされてお姉さんは、ひとりで泣いているばかり。お母さんは私にいつも、意地悪してはだめって言った、どうして意地悪しちゃいけないの?お母さん、私にいつもやっていたじゃない。うるさいとか来ないでとか、汚いから来ないでとか。はしかのときも、あせものときも。どうして私はいけないの?どうして私を突き落としたの?
みんな、ちゃんと知ってるよ。お母さんがしたことも、お母さんがしていることも。
キュルキュル、キュルキュルという耳が不快になるノイズを間に挟んで、かつて育てた我が子が言う。
しょうがなかった、私は忙しくて「母親になると、女ってすぐに仕事をやすみたがるよね」とかヒソヒソ話す男どもを早く見返したくて、私は必死に頑張ってきた。かまってほしい、甘えたいという娘の声を無視して、持って帰ってきた仕事を必死にやりとげた。硝子の天井なんてきっと、都市伝説なんだと自分に言い聞かせながら。
小学校に入ってすぐ、熱を出したあの子を「元気だって嘘をついて、学童へ行きなさい」と言い聞かせ、しがみつく手を振り払い、仕事に行った。
夕方になって何度も、何度も学童から電話が入っていたけれど会議中で出られなかった。いいや、出ようとしなかった。
急な仕事をわざと頼まれても、快く引き受けた。仕事も子育てもできる母親だって、思われたくて。
でも、私は欲張りだった。落とし穴に気づかないほど。
日付が変わる頃帰宅すると、ドアの前で、娘はうずくまっていた。
すでに冷たくなっていて、声も出してくれない。後悔よりも、焦りが心に充満し、ゴシップ記事や噂を振りまく同期や男どもの顔が浮かぶ。
全員が、口の端に薄ら笑いを浮かべて、哀れんだ目で私を見る。
嫌だ、そんなの嫌だ。絶対に認めない。私はこれまで必死に仕事して、認めて欲しいって、誰よりも動いたんだから。
この子がひとり、寂しく冷たくなっただけで、なにもかも奪われるなんて、ペナルティにしては大きすぎる。報われないなんて、酷すぎる。
今まで、私は必死になって……少しだけは、娘のために、二人で暮らすためにって思って、大人になればわかってくれるって思って……。
気づいたら、私は硬くなった娘の身体をランドセルごと抱き上げていた。ずっしりと重く、冷たく、手が痺れそうになった。
私のせいにならなければ、そうならなければきっと私は、私は、私は私は私は。
頭の中が、自分のことでいっぱいになっていく。
あなただって悪かったのよ、こんな場所で、腹いせみたいに待つなんて。
私は自分の持っている力を振り絞り、マンションの階段まで行き、高く抱き上げると小さい声で「じゃあね」と娘に言い、手を離した。
ガタン、ゴトン、ゴロン、ゴロゴロゴロ。
キュルキュル、キュルキュル、キュルキュル。
鈍い音と、背負っていたランドセルにぶら下がった防犯ベルが壊れて、けたたましい音を立てた。キュルキュル、キュルキュルと。
事故で亡くなってしまった、慎ましく生きていた母子家庭の娘、悲しむ母親という芝居が、頭に浮かぶ。
責められないために、失わないために。
どこで覚えたのかと思うほど、私は金切り声で泣いたり、半狂乱になったふりをしたり、必死に芝居をした。
どんなに月日がたっても、私を哀れむ人はあれど責める人はいなかった。
男どもは「大変だったね、仕事も育児も、立派だよ」とわざとらしくフォローし、女たちは私を悲劇のヒロインにしてくれた。罪悪感はあったけれども気分はよく、仕事も無事に続けられた。
どうして今頃になって、私のところへ戻ってくるの?
私には何もないの、仕事を奪われたらもうおしまいなのに。
若い子はいろいろと手際をよくして、要領よくこなして時間通りに帰って行く。私のことなんか、おかまいなしに。
気弱な奴がひとりいたから、ちょっとからかってやろうと思っただけ。
胃腸炎で休んで復帰した日に「汚らしい、まき散らさないで」と鼻をつまんで笑っただけ。
悲しそうに、眉間を寄せて席へ戻っていった背中に、ちょっと舌を出しただけ。みんな、やっていることじゃないの?
どうして今頃、私が、私だけが責められなくちゃいけないの?
私が厳しく教えたからって、辞めていくなんて、どこに行ってもつとまらないわよ。もっとひどいことに耐えてきたんだから、あれぐらいどうってことないわよ。私だったら、私だったら。
ねえ、お願いだからもう声をかけないで。
引っ越して、電話番号もかえたのよ。スマホだって機種変更して、何回も取りかえたんだから。
仕事がなくなりそうなの、私がおかしいって言うの。みんな、私を避けていくの。
あんたのせいよ、今頃になってやってきて、何度も話しかけてきて、仕事中でもお構いなしに頭の中で、耳元で。
お願い、消えて。
謝って欲しいなら、謝るから。どうか消えて。
しょうがなかったのよ、私は、一人で育てようと必死で、必死になって、誰も頼らずに。
違う。違うよ、嘘つき。
娘が、キュルキュル、キュルキュルという防犯ベルの音をさせながら言う。
お母さん、仕事なんかできなかったじゃない。
間違えてばかりで、人のせいにしてばかりで、八つ当たりに嫌がらせに、ごり押しとか、ワガママな赤ちゃんみたいなことしてばかりで。会議も、仕事も、まるで他の人から奪うようにしたり、私がやったって嘘までついて、無理矢理出たりしていたじゃない。
残業するほど、持ち帰るほど、仕事なんかなかったじゃない。みんなみんな、透明になってから、ずっと見てきたんだから。
新しく来たお姉さんたちも、みんな、悲しくなって、辛くなって、出て行ったじゃない。
大事なのは仕事じゃなくて、会社にあるお席だったんでしょう?かわいそうなお母さん。
お母さん、もう嘘をつかないで。私にしたことを、他の人にしないで。
そうじゃないと、私はずっと、お母さんを。
お母さんを、追い詰めなきゃいけなくなるわ。
お願いだから、嘘はもうつかないで。間違えたことを、教えたり、誰かのせいにしたりしないで。
お母さんが私にしたみたいに、寄り付かないでとか、知らんふりなんか、もうしないで。
嫌いになりたくない、なりたくない。
お母さんのこと、私は、嫌いに……。
聞きたくない。もう、聞きたくない。認めたくない。向き合いたくなんかない。なにもかも嘘で、なにもかも想像で、私はできない女になってしまうから。
キュルキュル、キュルキュル、キュルキュル。
キュルキュル、キュルキュル、キュルキュル。
うるさい、うるさいうるさいうるさい。
私は、震える手を伸ばし、バッグに入っていたボールペンを持って、耳に突き刺した。
どうして、と娘が悲しそうに言って、それきり声は聞こえなくなった。私はマンションを引き払い、会社を辞めて、実家へ帰った。
もがいて醜い嘘つきになった私には、なにも残らなかった。
ただ、あの音だけは聞こえる。
キュルキュル、キュルキュル、キュルキュルと。
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