第一話

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第一話

 目が覚めたとき、私の魂はすでに現世からは遠く離れていて、言葉も時間も風も、すべてが凍りついたような、この亜空間にたどり着いていた。四方をすっかり眺めまわすほどの時間が経過しても、意識はまだ朦朧としていた。自分はこれから、この異様な世界でどう過ごすのか、まず、何をすべきなのか、その思考をうまくまとめることが出来なかった。ただ、少なくとも、このつかみどころのない世界が、地球上ではあり得ないことはすぐに悟った。  ふと、ある寂しい気づきが胸を突いた。そうか、私はきっと死んでしまったのだ。おそらく、ここは死後の世界なのだ。地球という星に行き場所を無くしたこの肉体は、誰に迎えられることもなく、不帰の客として、ここに佇んでいるのか。どうやら、自分に定められた時間は、つつがなく終えてしまったようだ。そこまで理解できた瞬間に、狭く陰湿な病室のベッドの上で、数人の知人に見送られながら、尊い人生を終えたときのことを、ぼんやりと思い出した。ただ、本題とはあまり関係のない、その詳細については、今さら語ろうとは思わない。ここは生前に街中で賑わう酒場において、葡萄酒や肉料理を楽しみながら、多くの友人らに囲まれ『天国や地獄はあるよ、いや、やはり、ないよ』などと、思うままに語っていた死後の世界と思われた。若い頃から新興宗教に入り浸り、信仰心に溢れていた私の叔母が、この不思議な世界のことを、しきりに語っていたのを思い出す。それによると、私の生まれた地方に太古の昔から伝わる神話の中では、人間の死後の生活とは、まず冥府と現世の間に漂う、この審問の世界に落とされることから始まるのだという。  それはまだ読み書きも出来ぬ頃から、毎日のように聴かされた話だった。あるいは、何かにつけて、やんちゃでじっとしていられない悪ガキを、なんとか更生させるために、叔母が自分の想像の中で、創り出した話だったのかもしれない。私はつまらないいたずらを働くたびに、家の裏手にある、狭く汚らしい物置まで引きずっていかれ、その中に押し込まれ、暗闇に脅え、身を震わせながら、黙ってその話を聞いていた覚えがある。  しかし、地上においては、雲霞のごとく数え切れぬほどの人生があるというのに、あの世においては、現世での役割をすっかり終えた、一つひとつの魂に対して、神から直々に審問があるなど、あまりにも馬鹿げているように思えたし、自分の想像を遥かに越えた話でもあった。つまり、半信半疑ということなのだが。そこで、叔母をこれ以上怒らせぬために、適当な相槌を打ちながら、話半分に聞いていた。しかし、死後の話というのは、聞いているうちに、それほどの理由もなく、その叔母のゆったりとした口調までもが、まるで魔女が語る伝説のように、段々と恐ろしく感じられるようになったことを覚えている。物心ついてからは、あり得ることとあり得ないことの区別が容易につくようになり、そんな空想じみた話は、鼻から聞かなかったことにしてすぐに忘れるように努めていた。ただ、幼少の頃に感じた心の微妙な震えは、生涯にわたり、刻印として心中に残ることになる。あるいは、それが私の死に対する恐怖の芽生えだったのかもしれない。  それが今、自分の死という現実を貫く形で、漠然としながらも、死後の世界として、目の前に展開されているのである。人間は平凡な暮らしの中で、どんなに気丈に振る舞っていても、誰もが心のどこかで、否応なしに死という概念を意識している。死刑囚のひとりとして、絶海の孤島の監獄にでもぶち込まれれば、おそらく、一番強烈に感じることが出来るのだろうが、サクラやイチョウが散っていく姿を見て、死という概念を連想する人だっている。この私だって(今はすでに思い出せぬが)生前はその声を常に意識し、その足音に脅えて、日々の生活を送っていたに違いない。しかし、実際に死の直後という瞬間を迎えてしまうと、どういうわけだろうか、それほどの恐怖の念は沸いてこなかった。心の中は不思議と靄(もや)がかかっているかのようにぼやけていた。まるで、精神全体がまどろんでいるかのように。自然とたどり着いた、この世界への恐怖と好奇心の区別もままならなかった。私についていえば、死という現象が本当に恐ろしかったのは、それを目前にした病床での一瞬一瞬の時の流れの中にあって、それがあっけなく過ぎ去ってしまい、この世界にまで来てしまった以上は、心中はとっくに諦めにまで到達していたし、この先にどんなに驚嘆すべきことが待ち受けているにせよ、すべてを受け入れる以外にはないと、覚悟も決まっていた。  叔母に聞いた話では、我々人間の魂には、現世を生きる機会(チャンス)が二回だけ与えられている。事故や病気などの原因を経て、魂が寿命へと到達することにより、一度目の人生を終えた後に訪れるのが、この審問の世界である。ここで人間界で関わった様々な案件について、細かく尋問され、それに対して滞りなく答えて、次の世界への通行の許可を得ることにより、新しく展開される次の一生へと向かうことになる。ただ、おぼろげに覚えている限りでは、二度目に死の苦痛を味わった後には、強制的に無の世界へ移行することが決まっている。それこそが、生けるものすべてが、真に恐れている魂の消滅と無への送致という事態である。精神や肉体が消滅して、思考と行動を永遠に奪われるということになるのだろう。しかし、逆に考えれば、虚無の沈黙に陥ることなく、その狭間にある、この世界に落とされたということは、つい先ほど終えたばかりの私の人生は、まだ一回目であったということになろう。この極めて重大な問題については、まだ、どれだけ結論を急いでも納得することはできない。自分の思考や思想がまだ生きていることを実感できるということは、この肉体と精神が完全に消されてしまうまでには、まだ幾らかの時間が残されているということなのだろうか。  私が知る限りでは、この中間の世界の存在理由は、すべての魂が二度目の人生に移行するための、いわば通過点である。ここに降り立ったときの私の外観は、一度目の人生を過ごしたときのそれと同様である。そして、まだ、確定されたわけではないが、性格や記憶や思考能力についても、おそらく、一度目の人生のときと同様のものを持ち得ている。まだ死の直後であるにも関わらず、生前に自分がとったはずの様々な行動の記憶は、かなり薄れてしまっていた。生前、どんな世界に生まれつき、どんな出来事に直面して、どのくらい長くその地方で暮らしていたか、そして、最終的にはどのような死に方を選んだのか、ということくらいは、なんとなく思い出せる。だが、自分の家族や友人知人の詳細な経歴、あるいは、学業や業務の中で、そういった仲間と協力して行なったことを逐一思い出していくことは、すでに難しいようだった。腹が空いたときに好んで口にした食べ物や、人間関係の選り好みや各種事件が起こったときの感情任せの単純な対処方法といったものは、生前の世界との繋がりをすべて失ったはずの、この空間においても、なぜか生きていたのだ。いわば、私の身体は脳の幾つかの組織に著しい制限がついた状態で、この世界に生かされていた、と表現しておく。  この世界は宇宙空間と同じく、重力がまったく存在しない。そのためか、あるいは、私が実体を失ったせいなのか、身体は宙に浮いてしまいそうなくらいに軽く感じられ、足元は一歩進むために地面を離れて浮き上がり、ふわふわと漂っていた。地面を一度ぽんと蹴った足が、再び地面につくまでに、以前の世界に生きていた頃よりも、相当に時間がかかるようだった。青春時代にテレビという映像機器によって何度も鑑賞した、特撮映画におけるスローモーションのようで、あまり気持ちのよいものではなかった。もちろん、慌てて何かを行う必要は、すでに存在しないわけであり、時間の浪費については、おそらく、いくらでも許されるはずだ。それでも、多少の焦りを含んだ、もどかしい気持ちは感じるのであった。移動に時間がかかるということは、地上でもこの世界でも苛立たしいものである  叔母に聞いた伝説の通りであれば、この審問の世界には、そもそも音という概念が存在しないはずだった。耳を澄ませても、(誰も行動を取っていないせいかもしれぬが)確かに何も聴こえてこない。落下音や第三者の足音や動物の鳴き声までも……。この状況が延々と続くのであれば、彼女の話はどこまでも正確であった。自分の肌で感じた限りでは、風や大気の揺らめきも、この世界にはないようであった。空を見上げても、濃紺の天空に無数の輝かしい天体が浮かんでいるのが見えるだけで、自分以外の生命体をこの目で捉えることは出来ない。名も知らぬ星々は、身動き一つせずに、音のない静かな夜空に整然と浮かんでいて、時々光の加減により、ちかっちかっと控えめに瞬くだけだった。あれほど際立った存在であったはずの太陽の姿も、どうやら、この世界では見ることができないようだ。どうやら、私が生前に暮らしていたはずの地球という惑星からは、相当離れたところまで飛ばされてしまったらしい。もはや、頼りにできるものは何もない。寂しさと言い知れぬ不安を感じ始めていた。  漆黒の闇の中には半透明で佇む自分の姿だけが、ぼんやりと映し出されていた。自分の魂をここまで連れ出してきた、何ものかの存在に脅え、おそらくは、この魂の行き先を一手に握っているであろう、その支配者たちの使いが、ここへ迎えに来るのを待ちながら、しばらくの間、何も出来ずに立ち尽くしていた。少しの寂しさはあったが、壮大で美しく、魅惑的な空間に囲まれて退屈はしなかった(もちろん、永遠という考えるだけで苦痛になるほど膨大な時の中に放り込まれて、退屈という安易な概念が、今でもなお存在するのであれば、だが)。しかし、どれだけ長い時間が経過しても(この世界が無限を内包するのであれば、この時間という概念も、きわめて空虚であり、存在すら疑わしい)、この中間の世界には目立った変化がまるで見られなかった。どうやら、太陽の代わりとなり得る、目立った恒星もここにはなく、朝と夜の変わり目も容易には見られないようだった。星々から地上へと女神の涙のようにこぼれ落ちてくる微かな光によって、自分の足元だけは仄かに照らされていた。その上、意識の働きはきわめて散漫である。周囲の不思議な空間について、何らかの疑念を呼び起こしたとしても、人の世界の時間にして、三十分以上が経過しないと、解決すべき思考の分岐点が脳内に現れないのだった。これでは、常に幾つかの疑問や妄想や記憶や解決方法が、脳内にて折り重なる状態が続くことになる。たった一つの問題を解決するにあたっても、非常に不便で不愉快な思いをすることだろう。思考と想像と疑問は、いっさいしないようにする。つまり、脳の動きをいったん止めたやった方が賢明である。  先ほど確認した通り、地球とは重力の強さがまるで異なるせいで、全力で走ったり踊ったりすることは難しいと思われる。ただ、真っ直ぐにゆっくりと歩いて行くだけなら、今の状態でも何とか出来そうだった。大胆な行動を起こすことには、かなりの不安が付きまとうが、私をここへ呼び寄せたはずの、未知の支配者からのコンタクトがまるでない以上、多少時間をかけてでも、何事かにぶち当たるまで、前進してみるしかないようである。  目の前の光景は、小さな庭園のように穏やかなものであり、自分の視界が届く限り、どこまでも平和な風景が拡がっているのだった。まるで地球上でもそこかしこに見られるような、片田舎の田園の別荘地の風景のようだった。自分の真横にある花壇には、赤と白のバラが十数本ずつ植えられていた。その美しさとみずみずしさに興味を持って、その繊細な花びらに指で触れようとしても、指先は何の感触も伝えてはくれず、花弁を揺り動かすことすら出来なかった。この世界には、私の欲求がただバラに触れようとした、という意思が存在するだけだった。これは魂だけの存在になってしまった自分に、意識を働かせる力がまったくないせいか、それとも、ここはおそらくマイナス四十度以下で凍りついた世界なので、バラの花も、花壇に植えられた他の植物も、その例外ではないのかもしれない。  私が今立っている一本道は、背が高く幅の広い潅木によって、それ以外の広場と明確に仕切られていて、遥か遠くに見えている高い外壁に囲まれた、大きな漆黒の館まで、ジグザクになりながらも続いているようだった。この不思議な風景がここを訪れる者たちにとって、何を意味しているにせよ、何らかの大胆な行動を起こす前に、まずは自分の肉体がその能力を完全に失いつつあり、今現在、どのような状態にあるのか、ということと、自分の精神活動を今後どのような目的を持って活動させていくのか、ということを、考えなければならなかった。しばらくの間、道の上に立ち止まって思案したあげく、取り合えずは、あの意味ありげな館までは、どうあっても行かなければならないと、そう結論を出すことにした。何しろ、この中間の世界が持つ領域はきわめて狭く、周囲を見回してみても、視界に見える中では、これからの活動に何らかの意味をもたらしそうなものは、あの無気味な館以外には、ほとんど考えられなかった。私が無気味だと表現したのは、黒い館の外観の雰囲気が、まるで幽霊や吸血蝙蝠でも飛び出して来そうなほど陰欝に見えたからだ。すでに魂を失った後の世界において、亡霊や凶悪な生物に襲われたところで、今さら何を失うことがあるのか、という手厳しい意見もあるだろう。とにかく、私がこの世界で最初に感じた不安とも呼べる心の動揺は、あの黒壁の館からもたらされる、きわめて重苦しい空気に起因していたのである。しかし、館の扉まで歩んで行くことが自分の義務であるにせよ、ないにせよ、それを行動に移さないうちは、この死後の世界において、平穏に生きる権利を与えられそうになかった。ここは魂の存在しない世界のはずだが、庭園や館があるということは、それを眺めることで楽しませるために、独りか、あるいは複数の存在が生活していることを意味している。館の中には、どんな神秘的な存在が待ち受けているのだろう。その人物から放たれる問いかけに誤った答えを示したならば、次に待つ平和な世界ではなく、煉獄へと突き落とされるのかもしれない。だが、どんな手厳しい質問がそこで待っているにせよ、兎にも角にも、正直に答えてしまえば、少なくとも、次の世界への展望は開けると思っていた。『自分を誤らなければ、大丈夫』叔母はそう主張していたように覚えている。  私は宙に浮かぶような軽い感覚に苦労しながらも、ゆっくりとたどたどしく一歩ずつ道の真ん中を歩いた。意識はすでに遥か前方へと先走っているので、次第に、なかなか前に進んでいかない自分の身体をもどかしく感じてきた。しばらく歩いていると、暗がりの中、道の向こうからやせ細った黒い猫が、こっちへ向かって歩いて来るのが見えた。この世界で出会った初めての生き物である。ただ、私にはこの猫が自分の存在に興味を持っているようには見えなかった。『よく来たな。この先は、わたしが案内をしよう』正義の味方が未開の地を旅する物語では、猫は道の途上で味方となり、必ずそう喋るはずだが、死後に出会った黒猫は驚くほど寡黙であった。その猫は腹がすいているのか、何か獲物でも探すように、視線を下に向け、ふらふらと落ち着きもなく歩いていた。この世界は何者かによって、創造され、支配されていて、その何者かが私に対して、わざわざ、この猫を差し向けたとは考えにくかった。猫の動きもこちらと同様に緩慢であり、視線を合わせようとすらしないのだから。私は一時動きを止めて、通り過ぎる様を黙って見ていたのだが、その猫はこちらには何の意識も興味も示さず、ただ、この道に沿って、ひたすら前に進むという意志だけを持っているようにも感じられたのだ。  その猫は私が触れられる位置まで来ると、突然、ニャアンと一つ鳴き声を発して、その場で立ち止まった。顔はようやくこちらを見上げて、『なぜ、ここに人間の魂がいるのだ』と不思議そうに首を傾げるのだった。おそらく、ここは人間の支配する世界ではないから、創造主に飼われている猫が、訪問者を目的地まで案内していく、という地球上での想像は、まったく通用しないのではないだろうか。黒猫は立ち止まったまま、耳の裏を前足でひたすらに掻きむしっていた。生前飽きるほど観察してきたものと、まったく同じように見えるが、こんな猫にも、実際は何らかの意味があるのかもしれない。ひょっとすると、彼はこの世界において何をすべきかを指し示すための案内人なのかもしれない。私は試しに、このつかみ切れぬ世界のことを尋ねるべく館の方を指さしてみたが、猫は不思議そうに、その小さな顔を一度そちらに向けただけで、やはり、来訪者である私には何の興味もないのか、少しの間を置いてから、そのまま背を向けて歩み去ってしまった。  私はかなりの時間をかけながら道なりに進み、ようやく館の門前までたどり着くことが出来た。もし、この世界のどこかに、私の魂を呼び寄せた存在が本当にいるとするならば、この世界に逢着してからすでに数時間が経過しているのに、未だにどこにも行きあたることができない私を見かねて、すでに、呆れかえっているのかもしれない。それにしても、初めてこの世界を訪れて彷徨う健気な魂に対して、案内人を差し向けるくらいの優しさはあっても良さそうなものだと考えるようになった。『なぜ、到着するまで、こんなに遅くなったのか?』という問いかけくらいは、かけられそうなものだ。私自身がこの世界において、どういう意味を持つのかすら、定かではない。とにかく、すべてが謎に包まれた黒い館の前に、ようやくたどり着いたわけだ。私よりも遥かに背の高い、真っ黒な鋼鉄製の門扉は、すべての来訪を拒むように、しっかりと閉じられていて、数人がかりで強引に押していったとしても、容易には開きそうになかった。私はコンコンと二回門を叩く振りをした。実際には、私の肉体はどこにも存在しないわけで、前世の時のように、この指の先が物体に触れることは叶わないわけである。しかしながら、死後の世界において、何の権限も持っていない私としては、とにかく、そういう懸命なる行動を取るしかなかったわけなのだ。実体のない無色透明な魂だけで行動している身なので、この冷たく硬そうな門に触った手応えというものは、全く感じられなかった。 「もしもし、どなたかいらっしゃいますか」  私はもどかしくなってきて、いったい、何ものに呼び掛けているのかも、わからないまま、そう口に出したつもりであった。しかし、唇はパクパクと虚しく空回りしてしまうだけで、実際には何の言葉にもならず、その反応を求める台詞は、ただ自分の心の中に響いただけだった。 「そのまま、気の向いたように、しゃべってもらって構いませんからね」 どこからか、突然そういう返事が響いてきた。どうやら、この音のない世界では、心に思ったことが、聴覚器官を介さず、そのまま、この世界全体へと響き渡っていく仕組みになっているようだ。ここに住むものは、皆、同じ意識を共有するということになるのだろうか。 「意識も定かでは無いと思いますが、あなたの魂は、この世界へ到着したばかりなのです。まだ、中間の世界で生活することに慣れていないでしょう? おそらく、順応するまで相応の時間がかかるはずです。ここでも人間界と同じように、他の生命体との意志の疎通はとれますから、どうぞ、そのまま、感じたことを心に思ってみてくださいね。それだけで、結構です」  門の内側の敷地のどこかから、そういう言葉が響いてきた。人間の世界の感覚でいえば、それは上品な女性の声のように感じられた。私という者に対して、ある程度の敬意を表しているようにも感じられた。この孤独の世界においては、その言葉は、温かいお湯を身体中にかけられたように、優しく心に響いてきた。この世界では面と向かって対話しなくても、互いの意志を伝えられると言いたいのだろうか。 「こんばんは、あなたがこの世界の主人ですか。実は、ここが中間の世界という名で呼ばれていることは知っていました。私は一度目の人生を重い病気という要因によって、何とか終えた者です。死んだ途端に意識が肉体と乖離してこの世界へと飛ばされてきました。ここでは何を目的に生活して、どのように意志をもって行動すればよいのでしょう?」  私は取り合えずそのように切り出してみた。まず、この世界の管理者の意志を聞いて、自分の魂だけをなぜここへ呼び出したのか、いったい、何をさせたいのか、それを聞き出してやってから、自分の要望を告げようと思ったのだ。要望といっても、『早く、この世界を通過して、二回目の人生を開始して欲しい』ということだけなのだが。
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