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第二幕:アリスとキリギアリス
アリスは大きな斧を家から持ち出すと、鏡の壁の前へとやってきました。
鏡の壁の周囲には街灯が並んでおり、夜や薄暗い曇りの日も、そこだけは煌々と照らされています。
――こんな照明に使うお金があるのなら、食糧を配給してくれたら良いのに。
苛立ちを込めて、アリスは斧を大きく振りかぶります。
斧は、十六歳の少女が扱うには少々大きいしろものでしたが、アリスは手慣れたものでした。
これまで何度も、この斧を使って獲物にとどめを刺してきたのです。扱い方は十分過ぎるほど心得ています。
アリスが力一杯振り下ろした斧は、鏡の壁にめり込み、そこから放射状のヒビがはしりました。普通の鏡であれば、今の一撃で砕け散っているはずですが、やはりこの鏡は特別製なのでしょう。
それでも、二度、三度と繰り返すうちに、ついに、アリスが通り抜けられるほどの穴が開きました。
その穴から鏡の向こう側へと入ったアリスが目にしたのは、意外な光景でした。アリスはてっきり、鏡の壁のこちら側と同様に向こう側も屋外だと思っていたのですが、そこは室内だったのです。
それまでアリスは知りませんでしたが、実のところ、区画間を隔てていたのは板のような一枚の鏡ではなく、長城のような建造物でした。鏡は、その外壁だったのです。
しかしそれ以上にアリスを戸惑わせたのは、元来た方向を振り返った時に見えたものでした。
つい先ほどまでアリスがいた、外の風景が見えたのです。
鏡でできた外壁にアリスが開けた穴からだけでなく、外壁が無事な部分も、まるでそれが鏡ではなく透明なガラスでできているかのように、外の様子がまる見えでした。
「驚いたかい? その壁は、不思議な鏡でできているのさ。街灯が立てられた明るい外からは鏡にしか見えないけど、暗いこっちからは普通の窓みたいに外がよく見えるんだよ」
突然声をかけられ、慌ててそちらへと顔を向けたアリスは、最初、そこにも鏡があるのかと思いました。なぜなら、そこにいた人物は、顔も体型もまるっきりアリスに瓜二つだったからです。
加えて言えば、二人は姿だけでなく声もそっくりでした。
もっとも、人の声というのは発声している当人と周囲の人間では聞こえ方が違うため、アリスはそのことには気づきませんでしたが。
「……あなたは誰? なぜ私と同じ顔をしているの?」
相手の少女はアリスの問いかけを聞くと、ふふっ、と笑いました。
「分からないかぁ。じゃあ教えてあげるよ。ボクの名前は、キリギアリス。君の、ドッペルゲンガーさ」
「ドッペルゲンガー……」
「そう。これで、何でボクが君と同じ顔をしているのかも、分かったよね?」
ドッペルゲンガーの話なら、アリスも聞いたことがありました。
自分と全く同じ姿をした存在。そして、それと出会ってしまったものは――
アリスは、首筋を冷や汗が伝い落ちるのを感じました。
そんなアリスの胸の内を知ってか知らずか、キリギアリスは彼女の目の前で、踊るようにくるりと一回転して見せました。
そして、ぐいとアリスに顔を近づけてこう言ったのです。
「アリス、ボクはこの夏の間中、そこの不思議な鏡を通して君を見ていたんだよ。君は冬を越すのに必要な食糧を蓄えようと、あくせく働いていたね。ご苦労なことだ。ボクはそんな君を横目で見ながら、ずっと遊んで暮らしていたのだけれど」
「夏の間、遊んでた? それじゃあ、冬がきたら死んじゃうじゃない」
「ところがボクの場合は、そうじゃないんだ。なぜなら、ボクは君のドッペルゲンガーなんだからね。君も聞いたことがあるだろう? ドッペルゲンガーと出会ったら、その人は死んでしまうという話を。ボクはわざわざ自分で働かなくても、君が食糧を蓄えるのを待って、それから君に会いに行けば良いのさ。そうすれば君は死んで、君の持っていた食糧はそっくりボクのものになる。そうして、ボクは冬を越せるというわけだよ。どう? なかなか良い考えだと思わない?」
アリスはあまりの悔しさに、思わず唇を噛みました。このキリギアリスの言っていることが本当なら、自分が夏の間必死で蓄えた食糧は、全てただ遊んで暮らしていた彼女のものになるのです。
そんなことがあって良いのでしょうか。
いえ、良いわけがありません。
「……そんなことには、ならない」
キリギアリスはアリスのその言葉を聞くと、そのにやにやした笑みをいっそう深めました。
「ならないって言ったって、君は既に、こうして君のドッペルゲンガーであるボクに出会ってしまっている。だったらもう、そうなるのは既に必然なんだよ」
「いいえ、あなたは私のドッペルゲンガーなんかじゃない」
「……へえ。じゃあ、なんでボクらは同じ顔をしてるっていうんだい?」
「それは――私があなたのドッペルゲンガーだからよ」
キリギアリスは、あっはは、とおかしそうに笑いました。
「面白いことを言うなあ、君は」
「証明できるよ」
「証明? どうやって?」
キリギアリスは、アリスの言葉を本気にはしていないようで、その顔には相変わらずにやにや笑いが貼り付いたままでした。
「ドッペルゲンガーと出会ったものは死ぬ。だから、こうして私と出会ってしまったあなたが死ねば、私の方がドッペルゲンガーだったことになる」
言うが早いか、アリスは手にしていた斧を振り上げました。これまで、数多くの獲物にとどめを刺してきた斧です。
ウサギにネコ、ヤマネ……それに去年の秋は、同じ区内に残った最後の住人である帽子屋さんも殺しました。二人の人間が冬を越すのに必要なだけの食糧は、もう区内には無かったのです。
帽子屋さんは、この区に移送される前に受けた尋問のせいで精神に異常をきたしていて、自分が今でも首都で帽子屋を営んでいると思い込んでいる困った人でした。
けれどアリスにとっての彼は、行き倒れそうになった雪の日に温かいお茶をふるまってくれた優しい人でした。
しかしそれでも、共倒れになるくらいなら自分一人でも生き延びた方が良い――アリスは、そう考えたのです。
思えば、施設への配給が止まり食糧が足りなくなった時、それを解決したのもこの斧でした。
五歳からの七年間を過ごした施設の職員はアリスにとっては親も同然で、他の子供達のことも兄弟のように思っていました。
それでも、生きるためには仕方なかったのです。
振り上げられた斧を見上げ、次にアリスの表情を覗い、彼女が冗談を言っているのではないとようやく理解したキリギアリスの顔から、血の気が引きました。
「まっ、待って! ドッペルゲンガーなんて言ったのは冗談だよ! 君がボクのことを忘れてるみたいだったから、ちょっとからかってみただけなんだ! ほら、よく思い出してよ、ボクは君の――」
キリギアリスはその言葉を、皆まで言うことはできませんでした。
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