1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
[Lot of words]
雨降って地固まる。
と、そんな具合に物事、特に男女の仲はうまく当てはまらないと、小夜子(
さよこ)は傘に付いた雨露を払いながら思う。
確かに雨は止んだんだけどな。夜空は。
そんなに思慮にふけつつの仕事終り途中。駅の近くに着く頃には今朝方から降り続けていた雨も止み、小夜子は傘を閉じてボンヤリと歩いていた。
ケンカした彼氏と一週間も連絡をしてない事を胸の内に抱えながら。
そんな懊悩が前方不注意を促したのか、目の前の水溜まりに思わずプレーンパンプスがズブリ。
うわ。全然、地は固まってないじゃない。
無駄な八つ当たりを、胸襟、水溜まりに向ける小夜子だったが、白色の靴だったので、その泥の跳ね具合が目立ちに目立った。
どうしようかな? ハンカチで拭く? でも、このハンカチって結構な値段で、買ったばかりなのよね。ティッシュ……は持ってない。こういう時に限って、もう!
あくまで内心で苛立ってはいるが、その表情はすれ違う通行人が二度目する程の眉間シワ寄せのふてくされた形相。彼氏とケンカ中のストレスも相まって頬の膨らまし方も、サクランボのカラー以上の赤ら顔を強調するような術になっていた。
もうすぐ誕生日だってのに、本当にツイてない。何の因果でこういうタイミングで嫌なことが重なるのよ。
彼氏とのケンカ中でもあり、このままではヘタをしたら一人で誕生日を迎えるか知れないという焦思も相混じり、小夜子の小さな憤怒は溜まり始めて、今夜、ヤケ酒気分目前。
そんな小夜子の目の前、駅前の高架下。そこに靴磨きをしている中年の男がいた。今も客が付いていて、愛想良くその客とお喋りをしながら、中年の靴磨きの男は柔和な笑顔で対応していた。
傍目から見て白髪交じりの愛嬌のある靴磨きの男を小夜子は見て、靴磨きをしてもらった事はないけど、あのオジさんなら頼み易いかも、と考え、思い切って泥で汚れた自分の靴を磨いてもらおうと、既に客が引いたその中年の靴磨き男の方へ向かった。
小夜子は靴磨きの男の前までやって来たが、なかなか話かけられないでいた。だが、直ぐに靴磨きの男はその状況に感づき、
「あいよ! お嬢さん。靴を磨きに来たんでしょ?」
「あ、はい。お、お願いできますか」
「何を言ってるんですか、お嬢さん。お嬢さんはお客さんですよ。それに確かに若い娘さんが靴磨きに来るのは珍しいですけど、こちらとしては嬉しい限りで。こんな小野小町も見劣りすような綺麗なお嬢さんがお客だなんて」
軽口、滑舌、抑揚もよろしく小夜子にフランクに話し続ける靴磨きの男。靴磨きの男のまるで漫談のような喋りに、小夜子は思わず吹き出し、
「あはは。あのパンプスの靴なんですけど大丈夫ですか?」
「真の靴磨き職人は履かれる靴を選ばずですよ。さあ、お座り下さい」
靴磨きの男はそう言って小夜子を促すと、クリームをネル生地の布に付け早速小夜子の靴を磨き始めた。真の靴磨き職人、自称するだけあって靴磨きの男の手際は良く、確実にパンプスの汚れだけを落とし、大分が相当に露出している足の甲にかかるストッキングには、言わずもがな、はみ出すようなミスは犯す事はなかった。
「いやね、こういう泥濘(ぬかるみ)が多い日ほど、お客さんの数が増えるんですよね。お客さんの側からすればたまったもんじゃないと思うんですが、こっちとしては雨上がりは願ったりかなったりで。マイナス材料が強く作用するっていうんですかね、この靴磨きの職業。言葉は悪いかも知れませんが、人様が困ってる時ほどお得感がある。だから普段は来ないような、あなたみたいな若いお嬢さんのお客とも話すチャンスが出来るというわけです、へへ」
子供ような無邪気な笑みを漏らしつつ、靴磨きの男は積極的に快活に話しかける。そんな靴磨きの男の話に小夜子も興が乗って来たのか、小夜子も率先して会話するようになってきた。
「そんな若い、若いって言いますけど、私ももうアラサーのOLですからね。会社の部署内では半分、お局キャラとして若手の社員からは扱われているんですよ」
「そんな、お局だなんて。こんな可愛いお嬢さんなんだから、恋人とかはいらっしゃるんでしょ?」
「え?」
「おっと、コイツは突っ込みすぎた質問でしたかね。セクハラの類ってヤツですかい。気を悪くしちまったんなら謝ります。すいやせん」
「いえ、全然。むしろその私の恋人との話を聞いて欲しいぐらいですよ」
「ほう、何かあったんで?」
「あ、ええ、まあ。よくある話なんですけど、今、彼氏とケンカ中でして……」
「ほう。こんな可愛いお嬢さんを困らせるなんて罪な彼氏さんですな」
「へへ、そうでしょ。罪な男なんですよ、アイツは。ただケンカの原因が曖昧で、何が理由だったか、もう、忘れちゃってるんですよね。こんなのもカップルあるあるみたいなもので、実際にケンカして口もきかなくなったぐらいになったのに、アレ、何が原因でケンカしたんだって? ってなるんですよ。おかしいでしょ。だから、その、例えこっちから折れても、そもそもとして何キッカケでケンカしたか分からなくて、どう謝ればイイのかも浮かばないんですよね。いつもこんなの繰り返しで慣れてはいるんですけど、今回のケンカは妙に長引いちゃっていて、ちょっと不安で……じゃなくて! 私、悪くないんで。きっと問題もアッチ側にあるんと思うんで、全然、私は謝る気はないんで」
「なるほど。そいつは難しい問題ですね」
「でしょ」
と嘯くように小夜子が答えると、小夜子のスマホが震えた。LINEが来た、と直ぐに理解した小夜子は密かにその相手が彼氏ではないかと期待したが、相手は女友達の同僚で、まだ近くにいるなら一緒に飲まないか、という誘いの連絡だった。一瞬、気落ちしたのと同時に、そういえば明日は休日だったか、と思い出し、靴磨きの最中、小夜子は直ぐに、OK、とLINEの返事をして送った。
スマホのスマホ・ケースに飾り付けている、ハートが半分欠けているストラップを、タッチパネルの操作で揺らしながら。
靴磨きの男はそんな小夜子の様子を一瞥した後、
「若い男女の仲ってのはワシのようなオッサンには複雑すぎて、何とも言えないんですが、ちょっとした偶然ですかね。お嬢さんと似たような話しをしてくれたお客をつい先日相手にしたんですよ」
「私と似たような話、ですか?」
「へい。お嬢さんと同じ年頃くらいの若い男性でしてね。いえね、ワシはこの辺りだけで靴磨いているわけじゃなくて、色々とグルグルと廻って仕事場を変えたりしてるうんですよ。まあ、ちったあ縄張り意識の強い同業者とかと一悶着あったりもあるんですが。いや、それはイイとして、その若い男性客もワシがこことは違う場所で働いている時に出会ったんですがね。確か……○✕駅の方だったかな」
「○✕駅?」
その名称を聞いた時、小夜子はそこが彼氏の勤務地の通勤駅である事を思い出した。
小夜子が手に持っていたスマホの動きが止まり、無言でそれを握りしめている彼女の姿を横目に、靴磨きの男は小夜子のパンプスを磨きながら話を続けた。
「その若いお客ってのは妙にソワソワしてて、何か様子がおかしかったので、ちょっとトークってヤツを持ちかけてみたら、ここぞとばかりに堰を切って喋り出してきましてね。いや、ワシもお喋りは嫌いな方じゃないんで、根掘り葉掘りと尋ねては聞き入って。お客さん曰く、自分は彼女とケンカしているが、どうにも素直に謝れる自信が無い、と。それにやっぱりお嬢さんと同じく、何が理由でケンカしたかすら覚えてないんで、どう言った台詞を口にすれば分からない、とかね」
「あ、あのちょっと待って下さい。その男性の特徴とか覚えていますか?」
「どうでしたっけねえ。短髪で背は高かったかなあ。それに眼鏡をかけていたような……」
似てる。靴磨きの男の言質を聞いて、それが自分の彼氏の姿形と見合ってる、と小夜子は直感した。
そして、そんな小夜子を前に靴磨きの男は一言告げた。
「そういえば、コイツも偶然なんでしょうが、お嬢さんが今手に持っているスマホのストラップてヤツですかい。それを例の若いダンナも付けていたような記憶がしてます。そのハートが半分欠けた純白のアクセアサリーってヤツです」
「え?」
「それにこんな事も言ってたかなあ。もうすぐ彼女の誕生日。お祝いをする約束の日。だけどこんな二人の状態が長く続くようじゃ、どうにもやりにくいなあって」
誕生日。約束の日。靴磨きの男の残したそれらのワードは、小夜子自身の歳時記に思い当たる節のある台詞。もう間もなく自分に降り掛かるはずの、喜ぶべき記念日。
「あ、あの……』
「はい、靴磨き終了です。お疲れさまでした」
驚きの声をあげたとともにキョトンとする小夜子を他所に、靴磨きの男は仕事の終わりを小夜子の言いかけた台詞に食い気味に伝えた。
小夜子は直ぐに立ち上がると手提げバッグから財布を取り出し、
「あ、あ、ありがとうございます」
と靴磨き代を渡し、その場を足早に去りながら、先ほどの飲みの誘いのLINEの返事を、やっぱりキャンセル、とまた返信して駅のホームへとさらに小走りになって離れていった。
数メートル離れた位置にいた靴磨きの男の同業者が、
「何かあの若いお嬢ちゃん、血相抱えていたみたいだけど、オタクが何かやらかしちまったのかい?」
「まさか。ワシがそんなトンチキみたいな事するかい。ただお喋りを楽しんでいただけだよ」
「けど、どうにも焦った感じで、逃げるようにどっかへ向かって走っていったぜ」
「逃げる、じゃなくて、追うように、の間違いじゃねえのかい。それに何処へ向かったのかなんてワシには分からんよ。その勢いはきっと若さってヤツなのよ。若いってのは最高の宝物だからね、へへ」
靴磨きの男は満面の笑みを零しながらそう言うと、次の客が来る準備のために、靴磨き道具の手入れを始めた。
了
最初のコメントを投稿しよう!