アンインストール

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 ログアウトするみたいに、タップひとつでこの現状を終わらせることができたならいいのに。  あたしは本気でそう思っていた。だから、このやりきれない今を強制終了できるなら、その方法や手段なんてなんでもよかった。  今学校帰りに底冷えがする駅のホームに立っている。足元の黄色い線を境界線にして、そこから数歩足を踏み出せば、たぶん簡単に現実から離脱することができる。  具体的に行動すればいいだけだ。具体的な答が欲しいなら。  そうしたくなるほどの個人的な理由はあるんだし、絶望の二文字だけではなんとも表現しがたい気持ちにピリオドが打てるならなんだっていい。心の平穏を取り戻せる静かなところへ早く行きたい。  向こう側のホームの看板に目が行く。  女性タレントが並びのいい白い歯を見せびらかして、風邪薬の効能を唱ってる。そんなふうに甘く微笑みかけないで欲しい。風邪なんて、五分後の自分にはきっと無関係だから。  それなのになんでマスクなんかしてんだろう。律儀に馬鹿みたい。もうこんなもの要らないじゃん。  インフルエンザとか満員電車とかテストの結果とか。寒いとか眠いとかお腹すいたとか辛いとか悲しいとか惨めだとか。そういう煩わしい現実からあたしは自由になるんだ。  マスクを制服のポケットに捩じ込んで、大きく息をする。外気はたいして美味しくも不味くもない。それは無味無臭で、目に見えない花粉にやられて2つほどクシャミが出ただけだった。  イヤホンも外した。今聴いてた曲ってなんだっけ。タイトルすら出てこないし、フレーズすら口づさめなかった。  まぁいいか、その程度のものしか身に付けてなかったってことだ。未練がましくなくてちょうどいい。好きなものが多いと決意も鈍る。  あいつの笑顔をふと思い出す。その隣で一緒に笑ってる親友だと思ってた子の笑顔も。  二人が付き合ってることをみんな知っていたんだ。あたしだけが気付いていなかった。クラスメートはグループLINEであたしを笑い者にしてた。それくらいもう知ってる。  のろける私の話をあの子はどんな気持ちで聞いていたんだろう。どうしてあたしは気付かなかったんだろう。幸せ惚けしてたんだろうか。あたしだけが馬鹿みたいだった。いや、馬鹿そのものだった。  失恋くらいで消えたくなるなんて思いもしなかった。SNSは面倒だって言ってた彼のアカウントをうっかりみつけて、彼氏と親友が頬を寄せあって自撮りしてる写真に出くわしてしまったくらいで死にたくなるなんて思わなかった。  でもあたしは傷付いているわけじゃない。ただ二人からの裏切りに復讐したいんだ。  このホームに飛び込むことで、二人の一生を台無しにしてやれと底意地の悪いことを思っている。自殺するには立派な動機でしょう?  言い訳や慰めは要らない。ただ、今は全てを投げ出したいという衝動に忠実でありたいだけ。それだけがやけにリアルに私を突き動かしている。  黄色い線から一歩だけ前に進んだ。そっとまた半歩を足す。あともう半歩だけそっと。周りの人の足許がやけに気になる。  チラリと左右の横一列を眺めてみた。顔は見ちゃダメ。足元だけ。  線からはみ出ている人は結構いる。でもあれは仲間じゃない。  できれば電車のなかで席を確保したい、お気に入りの場所を陣取りたいって思っている、つまりは自分の生活に対して真摯に向き合ってる人種で私とはまるで真逆。  でも一人だけ、足の向きが妙な人がいた。白いコンバースが揃ってこっちを向いてるのが気になって何気なく顔を上げたら、同い年くらいの男の子と目があった。  学ラン姿の彼は目を逸らす隙も与えないくらい、眼鏡の奥から真っ直ぐにあたしを見ていた。  その子の目はお人形の目みたいに温度を感じさせなかった。あたしに対する好奇も好意もまったく感じ取れない。     それなのにものすごい圧力でこっちを見ている。その目にあるのは軽蔑なのかもしれない。そんな気がして、ものすごく居心地が悪くなった。  スクールバックを肩に提げてこっちをむいたまま彼は微動だにしない。左手に軽く握りしめてる文庫本がまるで手のひらから生えてるみたいだ。  黒いマフラーに顎まで埋めてる立ち姿はやけに寒そうで、目を細めて訝しげにこっちを見てるのが少し苛立っているふうにも見えた。  彼の強い眼力からやっとのことで目を逸らしたと思ったのに、こちらを向いていた彼の爪先はそのまま前方へと歩き出した。  一両隣の並び列から抜け出して、彼は私の隣までくると足を止めた。 「やめろよ」  まさか声を掛けられると思わなかったから、虚を突かれて返す言葉を探せなかった。  隣に来て初めて彼の背がとても高いことがわかった。あたしは恐る恐る彼の顔を見上げる。  離れた場所からでは冷たい印象を受けたその目は、近くで見るととても綺麗だった。その清らかな眼差しが、汚ならしいものでも見るかのように、あたしを見下ろしていた。  あたしはわざと返事をしなかった。その場を動くこともしなかった。 「俺、人身事故現場に居合わせたことがあるんだ」  その第一声は、私を動揺させるには充分だった。でも、そんなのハッタリに決まってる。そう思うと落ち着きを取り戻すことができた。 「なんの話ですか?」  平然としらばっくれる。他人に対してこんな失礼な態度をとったことは今までない。先がないと思うと人間は本性が出るらしい。 「なんでマスク外すんだよ? これから帰宅ラッシュの電車に乗るやつが」  不審人物として、あたしのことをずっと見ていたんだろうか。いろいろ思いめぐらしたけど、結局あたしはその言葉を無視して遠くの景色を眺めた。 「俺しばらくここにいるから」 「それ、横入りじゃないですか」 「あんたの自由にされたら迷惑だから。これでも気を遣って遠回しに言ってるんだけど」  彼の声は冷淡だった。 「どのへんが遠回しなんですか? 思い込み激しくないです?」  あたしもたぶん彼と同じように、相手の存在自体に少々苛立ってしまっていた。 「地獄絵図になるんだよこのホームの全てが一瞬でなにもかも。肉片と嘔吐物と悪臭に溢れかえってパニックになるしみんなメンタルクリニック行きだし。後片付けする側のこと考えたことあんの? 大勢の人の足にも影響が出るし、あんたの家族の心的負担を想像してみろ、ほんとにそれでいいと思う?」 私の身を案じているわけじゃない。うっぷんを吐き出しているだけだ。そんな口振りに心底腹が立った。 「なにそれ。勝手に決めつけないでよ。説教とかあり得ないんだけど。マジ勘弁」 「それはこっちの台詞」 「もう快速来ちゃうから」 「なんで停まらない快速を待ってるわけ?」 「あっ……」  うっかり喋りすぎてしまった。 「あのさ、君がミンチになるのは自由だけどせめて明日にしろよ」 「明日?」 「そう。もしくはひとつ後のにするとか。俺次の電車にどうしても乗らなきゃならないんだよね」 「はぁ?」  呆れた。彼は本気で言ってるんだ。自分さえ巻き込まれなければ他はどうでもいいって。 「なんなのあんた?」 「見たまんま通りすがりの高校生だけど」 「なんかムカつくね」 「あんたに常識が欠けてると思ったから声かけただけじゃん」 「……優等生ってあたし大っ嫌い」  あいつがそうだった。すごく優しい人だったから、誰を傷付けることも選べなかったんだと思う。あたしをフッてくれればそれでよかったのに。多くの失恋がそうであるように、あたしだって普通に惨めにフラれたかった。 「じゃ嫌われついでに言うけどさ、スマホの中身とか整理した? SNSとか大丈夫? ツイッターとかラインとか。インスタやフェイスブックはあんまり匿名性もないし友達にアカウントも知られてるだろ?   あれってさ、事故とか事件とかに巻き込まれると生前の生活スタイルとかアホ面なんかがニュースで勝手に流されるじゃん。それってどうなの? 死んだら羞恥心もなんもないけどさ、身内の恥部垂れ流される遺族はたまったもんじゃないよね」  早口で捲し立てるようにそう言われて、ハッとした。  消せないまま大事にラインのキープに入れてある甘いやり取りとか思い出の曲とか、親にはとても見せられない写真の色々とか。あと、インスタに撮りためた想いとか、励まされたいいねの数とか。フェイスブックにそのままの友達との旅行の思い出とか、中学時代好きだった人と繋がれてちょっとときめいたこととか。  そんな思い出も一緒に向こう側に持って行くつもりだったのに、それは無理ってことなんだろうか。 「スマホなんて真っ先に粉々じゃないの?」 「スマホはそうだろうけど、電車に飛び込むくらいで情報や思い出まで粉々にできるのかどうか俺は知らない」 その言葉に固唾を飲んだ。 「あれ、もしかして?」 「なに?」  何動揺してんだろあたし。動悸が耳のそばで聞こえる。 「ちょっと不安になってきたとか」  男の子は初めてあたしに柔和な表情を見せた。  真冬の風が情け容赦なくホームに吹き込んで、その冷たさはここにいる誰にも平等なはずだった。  だけどその風に煽られた彼の柔らかい黒髪が一度ふわりと浮いてまたその頬に着地したとき、あたしは自分の体温を見失ってしまうような感覚に見舞われた。 「不安になんて、別に」  そう言って俯いたら、間もなく快速電車が通過するという旨のアナウンスがホームに流れて、全身の毛穴が引き締まった。 『危険ですので黄色の線の内側に下がってお待ち下さい。』  小さく息をついたら今度は全身から冷たい嫌な汗が吹き出した。腋の辺りに冷たく流れるものを感じる。本能が些細な心的負担を捉えて正常に反応している。その事実に明らかに動揺している自分がいた。 「見ててやろうか?」    男の子は匙を投げたみたいに、リラックスした姿勢で首を少し傾げてみせた。眼鏡が彼の表情を隠した代わりに、マフラーで埋もれていた口許がチラと覗く。  彼は手に持っていた文庫本をあたしに差し出した。 「これもってく? 絶対死ねるとも限らないけど冥土の土産ってやつにしていいよ。半身不随で余生を過ごすとか最悪だからあっさり死ねるといいね」 飄々と言いながら彼が差し出したのは『桜の森の満開の下』というタイトルの小説だった。 「……いらない、そんなの」 なんとかそれだけ言えた。 彼の言葉にあたしは怯えてしまっていた。 「確かに女子高生には不向きかも。てか本とか読むタイプに見えないね君」 「……本は嫌いじゃないよ。でも感傷的になるのはもうごめんなの」  少しムキになって言い返したら彼は申し訳なさそうに苦笑した。 「そういえばさ、その制服どこのだっけ? 思い出せなくて」 「あたしもあんたのとこの学ラン、どこだか思い出せない」 「へぇ」 「見覚えはあるんだけど」 「ふーん。よかったじゃん」 「なにが?」  そう問いかけたら彼はくっきりとした輪郭を持った白い息を吐いて固い表情をほどいた。 「思い出せないことがあるとか、気掛かりとかあればもう大丈夫なんじゃない?」 「……何の話?」  彼はあたしの腕を掴んで、黄色い線の内側へあたしを引っ張った。そのすぐあとに、快速電車が私達の横を憮然と通過した。 「知りたいことや言いたいことがあるのなら、まだ君の居場所はこっちってことでしょ」 「知りたいこと……言いたいこと……」  心のなかで反芻したつもりが、声に出てしまっていた。 「ほらマスクつけたら? もうすぐ電車来るよ。乗るんだろ?」  返事をするかわりに、歪んでしまったさっきのマスクをポケットから取り出して、少し迷った末に伸びきった紐を耳にかけた。  ほどなく電車が停車してそれに乗ろうとしたのだけれど、我先にドアが開くのを待っていた彼のスマホからラインの通知音が聞こえて彼が足を止めたから、あたしもなんとなく一緒に立ち止まってしまった。  彼は無駄のない動きでそれを取り出しタップしてからうわ、と小さく呻いた。  彼がスマホに見いっている間に電車は行ってしまった。  顔を上げてあたしが電車に乗らなかったことに気づいた彼は、不思議そうな顔でこっちを見た。 「あれ、乗らなかったの?」 「いや、もしかして、迷惑かけたかなって。どうしても次の電車に乗らなきゃみたいなこと言ってたのに、あんた乗らないから」 「あぁ」 彼が柔らかく微笑んだのが予想外で、少しドキリとしてしまった。 「いいんだ。どっちみち間に合わなかった」  彼はスマホの画面を見つめたまま、どこか複雑な表情で、でも少し安堵した顔でやっぱり微笑んでいた。 「なんか、ごめんなさい」  もはや今のあたしは、さっきまでの自分の考えに嫌悪感すら抱いていた。 「いや、いいんだ」  そう言って彼はスマホの画面をあたしに見せてくれた。 「たった今無事に生まれたって。俺の弟」  ラインのトーク画面に、真っ赤な顔のあかちゃんが苦虫を噛み潰したような表情で眠る写真が添付されていた。 「早く駆けつけたかったから焦っててなんかイライラしてて。俺の方こそ結構ひどいこと言ったよね。ごめん」  さっきまでの威勢をなくした彼は別人みたいに見えた。 「ねぇ……ほんとに身内を人身事故でなくしたとかの経験があるの?」  すごく説得力のある言葉で脅されたような気がしたから思いきって聞いてみた。 「まさか。あれは全てハッタリ。俺の想像力すごいっしょ」  彼の無垢な笑顔を見たら、あたしは自分の失恋がアホ臭くなって、スマホをポケットから取り出した。 「何やってんの? やっぱ死ぬ前に身辺整理すんだ?」 「違う、生きるために不要な荷物を減らしてんの」  私は腹立ち紛れに顔も上げずに全てのSNSにログインした。  ブロックとかミュートとか、そんな生易しい気持ちで明日からも彼らと顔を合わせられない。だからアカウントのすべてを、削除した。  もはや大事なものは何ひとつないような気がしてすべて同じようにログアウトすると、ついでにアンインストールしてしまった。  サクサク処理していくと、全てが初めから要らなかったもののように思えて、清々しい気分になった。  風通しの悪い部屋に冬の朝の新鮮な空気が流れ込むみたいだ。だってスマホの画面は隙間だらけになってしまったから。 「言いたいことは直接言った方がいいし、聞きたいことも直接聞いた方がいいよね」 「うん、俺はそう思う」  何気ない呟きに彼がそう答えてくれたから、あたしは自分を裏切ったあの二人の顔を思い浮かべた。  考えてみればあたしが死ぬなんておかしい。死ぬべきはあいつらだ。せめてあたしの負った傷の深さくらいは知ってもらわないと。 「SNSじゃ、叩いたり炎上させたりが限界だもんね」  そんなものは生温い。元カレのことは、一度グーで殴ってやろうと本気で思っていた。 「恨んでるやついるんだ? なんか生きてるって感じすんね」  そう言われたとき心臓が一度どくん、と大きく跳ねる音が聞こえた。 「桜の森のナントカ、実はまだ読んだことないんだよね」  自分はとても大胆なことを言っているっていう自覚があった。 「あぁ、貸そっか? ちょっと狂ってるけど俺は純愛モノとしてカテゴライズしてる」  意地悪そうに笑う彼の手からあたしは本を受け取った。  読んだことはないけれど、山賊が女をさらって……とにかくザクザク人を殺していくようなそんな物騒な内容だったような気がする。  そんな小説を純愛モノって分類してる彼のことがなんだかやけに気になる。  知りたいことや、やり残したことがひとつでもあるのなら、居場所はまだこっちだ。  だから黄色い線の内側で「この本貸してよ」って彼に言った。 「ファボってるやつだから、ちゃんと返してくれるならね」 彼に笑顔でそう言われたから、あたしは生きることにした。 おわり。
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