《69》

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「脅しだと思うか、数正」 言って、信康は狂気を強調する為、少し笑って見せた。 「俺は躊躇なく首を刎ねる。下男だろうが、徳川家の重臣だろうがな。俺にとってはどれも素っ首一つよ」 「私がもっと厳しく当たるべきだった」 数正が言いながら、眉を下げた。その表情は何やら哀しげな色を帯びていた。 「槍、指揮、全てに天稟を持っている若殿に期待し過ぎたのだな。若殿に潰れてほしくない一心で甘く扱い過ぎた。今日に至るまでに一度、私か親吉が若殿を叩き伏せてしまうべきだった」 「なんだと」 一つ吠えて、信康は半歩足を前に出した。あと爪先一つ前に出れば、剣先が数正の鼻に当たる。 「まるで俺など簡単にひねれるというような言い方ではないか」 「もう、若殿も数正も、やめよ」 言いながら、親吉が進み出てきて、数正の胸を押して太刀から遠ざける。 「数正、何を意地になっておる。冷静なお前らしくないぞ」 「情けないのだ」 数正が言った。 「お館様から教育を一任されたのに、ちゃんと育てる事ができなかった。私は自分自身が情けなくてしかたない」 「今日はもう兵糧を摂って眠ろう」 親吉が言う。 「若殿も数正も頭を冷やす時間が必要だ」 「お前たちは俺の後見人であって上役ではない」 去り行く数正と親吉の背中に信康は叫び掛けた。 「お前たちを統轄しているのは俺だ。それを忘れるな」 「よく休みなされよ、若殿」 振り返らず親吉が応えた。あしらわれた、と信康は感じた。やはり、子供として扱われている。その思いが強くなった。  深夜、信康は寝床から起き上がった。寝床と言っても地に藁を敷いただけのものである。夏の野営だ。それでもあまり苦にはならないのだが、体にくっついてくる虫が鬱陶しかった。 首筋を掻きながら信康は立ち上がった。  いくつも、篝が焚かれている。炎の中に蛾が飛び込み、黒くなって消えた。  信康は一人の兵に近づいていった。侍大将の一人で信康の直轄だ。 「俺の直轄兵、20名を召集しろ」 侍大将の傍まで行って信康は言った。 「これより、武田の陣地に夜討ちをかける」
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