ナナミとミヤコ

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ザーッ…… 雨の音、都会の雨の匂い……あまりいい匂いではない。空中の排気ガスとかが染み込んでいるから。 「……腹減った」 俺はそんな雨の中を傘もささずに1人でさまよっていた。行くあてなんかない。ただ、この焼け付くような空腹を紛らわせるようなものを見つけられたら……水や雨の匂いなんかで腹が膨れるはずもないし。 食べ物を探しに行った俺の母親はもうだいぶ帰ってこない。多分〝ヤツら〟に捕まってしまったのかも。待つように言われていたが、腹が減ってしょうがない。俺も食べ物を探しに出かけたのだった。 この世界はお金を払わずに食べ物を得ようとする者たちには特に厳しい。要は苦労をしないで利益を得ているのが気に食わないっていうのが風潮なんだろうな。こっちだって生きていくのに必死なのに。お前らなんかよりよっぽど苦労して生きているし、食べ物だってお前らが捨てたものを貰ってるだけだ。 まあそんな歪んだ世界に俺は生きている。残念なことにな。知り合いも何人か〝ヤツら〟に連れていかれてしまった。連れていかれた奴らがどうなるのかは分からない。戻ってきたやつがいないから。 嘆いていたって腹は減るし、食わないと生きていけないんだから食うしかない。 「雨降ってるし、ゴミはあまり出てないな…」 めぼしいゴミ捨て場をいくつか漁ってみたが、食べられそうなものは何もない。時間帯も良くないのかも知れない。時刻は夕暮れ、すれ違う学生やサラリーマンたちは俺の姿を見ても気にかけないし、汚ねぇガキが歩いてんよーみたいな感じで思ってるに違いない。 ダメだ。もう限界だ。濡れた体が冷たい。雨が体力を奪っているのだ。 足は動かねぇし、目は霞んできたし……このまま死ぬのかも。それもいいかもしれない。このまま生きていたって楽しみがあるわけでもなさそうだし…… そう思いながら俺はその場に横たわると、雨に濡れながら静かに目を閉じ…… いや、おかしい、さっきまで体に打ちつけていた雨の感触がしないぞ。ついに感覚まで麻痺してしまったのか……俺が恐る恐る目を開けてみると、霞んだ目にピンク色の大きな物が見えた。多分傘だ。誰かが俺の体に傘をさしてくれているようだ。 「……っ?」 耳もだいぶ聴こえなくなっているが、心配そうな声がする。応えようにもなにか反応するような体力は残っていない。ただ寒くて… すると、冷えきった体に温かいものが触れる感触があった。そして俺はひょいと誰かに抱きかかえられた。濡れているとはいえ、もう何日も何も食べていないのだ。おまけに俺はまだ子どもだ。軽いだろう。 その手が温かくて、安心したのか俺は気を失ってしまったのだった。 気づいたら俺は柔らかい布団の上で寝かされていた。温かい。部屋もすごく温かい。ひどく明るくてメルヘンチックなイメージの部屋だ。こんなところ当然ながら来たことは無い。ここはどこだろう。天国か?俺はやはり死んでしまったのだろうか。 「あっ、生きてた!よかったぁ〜!」 「っ!?」 びっくりした。目の前には学生だろうか、部屋の中だというのにまだ帽子とマフラー、コートを着た女の人がいて、といっても俺よりもだいぶ歳上のお姉ちゃんなんだけど、手に持っていたタオルでわしゃわしゃと濡れた俺の体を拭いてくれた。 「ちょっと待っててね!」 お姉ちゃんは部屋の引き出しをゴソゴソして、何やら怪しげな機械を取りだした。そしてそれをコンセントに繋ぐと、ブワーン!と音がして機械が起動したようだ。 や、やめろ!それをこっちに向けるな! 「あっ、暴れないで!」 なんとお姉ちゃんは軽々と片腕で逃げようとする俺を抱きかかえた。機械からは俺の予想に反して炎などは出てこず、ただの温風が出てきた。どうやら俺を料理して食うとかそんなことは考えていなかったらしい。それにしても風が温かい。というか熱い。 俺の体はものの数分で乾いてしまった。 「よかったぁ……病院に連れていかなきゃって思ってたけど、元気になったね!」 いや、確かに元気にはなったが、俺にはまだ最大の問題があった。 思い出したかのように襲ってきた空腹が、俺がまだ天国に行った訳ではないということを再確認させてくれた。 「……助けてくれてありがとう。でも俺はこれから飯を探しに行かないといけないので、ここで失礼する」 何からなにまでお姉ちゃんにお世話になるわけにはいかない。人の好意にはあまり甘えるなと母親にも厳しく言われてきた。それが路上で暮らす者の宿命でもあった。 「んー?なになに?そっか!お腹空いてるのね?ちょっと待ってて!」 「なっ!?違っ!」 ひとの話を聞いているのかこのお姉ちゃんは!? お姉ちゃんは俺を残して別の部屋へと消えてしまった。多分食べ物を用意してくれるのだろうが、好意に甘えるわけにはいかない。俺はなんとか部屋から脱出する方法を探したが、残念なことお姉ちゃんが出ていった扉以外にこの部屋から出る方法はなさそうだった。 「…仕方ないか」 こっそりとその扉に近づいて、外に出てみる。 すぐ近くで部屋着に着替えたお姉ちゃんが冷蔵庫の中身を漁っていた。へー、俺の食べたことの無いような美味しそうなものがたくさん入っている。よだれが出そうだが、お姉ちゃんに気づかれないように後ろを通り過ぎようとした。 「あっ、そんなにお腹すいてたのね?よしよし」 まずいことに気づかれてしまった。そしてまたしても抱えあげられてしまった。 「こんなのしかなかったけど、食べるかなー?焼いた方がいい?」 床に下ろされ、目の前に皿に乗った魚を置かれる。……って生魚だと!? ゴミ捨て場でもたまに見かけるが、生魚は腐敗がひどくてとても食えたものではなかった。その生魚が新鮮な状態で目の前に置かれたのである。 食うしかなかった。俺は誘惑に負けた。 小ぶりの魚だったが、頭から尾までまるまる1匹、貪るように食った。美味い。こんなものを食うのは初めてだ。 「あははっ、よっぽどお腹すいてたんだね」 その様子を見てお姉ちゃんが嬉しそうに笑う。 「……ねぇ、うちに来なよ。帰るところないんでしょ?」 お姉ちゃんは魚を食べ終えた俺にそんなことを言ってきた。 「いや、でもこれ以上お世話になるわけにはいかない…」 「うんうん!そうしようそうしよう!大丈夫、ひとり暮らしだから誰も文句は言わないし!」 お姉ちゃん!?ひとの話を聞いてますか!?しかし、その口調にはなにか有無を言わさぬ強い意志のようなものがあった。 「ねぇ、名前あるの?」 「……ない」 「だよねー。だったら私がつけてあげる。そうだなー……ミヤコとかはどうかな?」 「嫌だ!」 俺男だぞ!?なんでそんな女の子みたいな名前をつけられないといけないんだ!? 「そっかそっか!気に入ってくれて嬉しいよミヤコ!」 ……なるほど、この生物はひとの話を聞かないらしい。 「私はナナミっていうの!よろしくね」 そう言いながら手を差し出してくるお姉ちゃん改めナナミ。幸い俺は人の言うことを聞くし、なにより空気が読めるやつなので、ナナミの手のひらの上なポンッと手を置いてやった。 「わーっ!ありがとう!」 するとナナミのやつはめちゃくちゃ喜んで俺にオレンジジュースを振舞ってくれた。これは甘ったるくてあまり美味くはなかったが、とりあえず俺の命の恩人はとてもチョロいやつだということが分かった。 そして不本意ながらナナミとミヤコの共同生活が始まったのだった。 ナナミは大学生だ。平日の昼間は大学に行っている。休日の昼間と、たまに夜には友達とどこかへ遊びに行っている。たまに時間のある時はナナミが俺を外に連れ出してくれることもあったが、基本的に俺は1人で留守番をしていた。 退屈だが、雨に濡れる心配はないし、〝ヤツら〟に怯えることもない。なによりも、ナナミが置いていってくれている食べ物のお陰で空腹に悩まされずに済むというのが一番嬉しかった。 なんだ、天国じゃないか。人の好意に甘えるのは良くないって言ったやつはどこのどいつだ? 脳内天気が常に快晴で、おまけに花満開のようなナナミだが、ごく稀にひどく落ち込んで帰宅してくることがあった。 「ミヤコきいてよー!今日カナがさー!」 死んだような目で帰宅してきたナナミは俺の姿を確認するとこんな感じで泣きごとをいいながら俺に抱きついてくる。そして頭を撫でてくる。やめてほしい。拾われてから数年が経って、俺ももう子どもではない。まあナナミよりは歳下だが。 「でさー、カナってば私の事無視してきてさー!」 「へ、へーそれは辛かったな」 カナというのはナナミの友達で、どうやら彼女と喧嘩してしまったらしい。生きるのに必死だった俺にはどうって事ない悩みだったが、ナナミはやたらとそういうことを気にする。 「……まあ嫌ならこちらも無視すればいいんじゃないか?」 「そうだよね!絶対仲直りしないとだめだよね!さすがミヤコ!」 「えぇ……」 こいつがひとの話を聞かないのは相変わらずだ。 そしてひとしきり愚痴を言ってこういうふうに自己完結すると、ナナミは決まって飯の準備を始める。俺はナナミの作ってくれる飯が大好きだった。俺が最初に貪った魚をベースにしたものが多かったが、焼いたり煮たり、すり潰したり、色々なバリエーションがあった。 やがて、ナナミは就職した。都会にある有名企業に就職したらしい。 するとナナミは一気に忙しくなった。毎日夜遅くに帰ってきては、スーパーで買ってきたような安物の飯を俺に出すと、何も言わずに自室に直行してしまうこともしばしばあった。 安物の飯は美味しくはなかったが、俺は文句は言わなかった。ナナミが苦労しているのは痛いほどよくわかったし、居候の立場では文句が言えるはずもない。 働くってこういうことか……確かにそれに比べたら働かずに飯を漁って食う俺たちは楽していると思われても仕方ないのかもしれない。俺たちは生きるのに必死だったが、お前らもお前らで必死だったんだな… 忙しく働くナナミは弱音は吐かなかったが、数少ない一緒にいる時間も、暗い表情をしていることが多くなった。快晴の花満開笑顔はすっかり影を潜めてしまった。 さらに数年が過ぎ、俺はすっかり年老いてしまって、体も思うように動かなくなってしまった。それでもナナミよりは歳下なんだけど。 ナナミは相変わらずだ。辛そう。でも前のように話を聞いて励ましてやる体力は俺にないし、ナナミも話をしている余裕はないようだった。 ある日のこと、その日は特に調子が悪くて、夜ナナミが用意してくれた安物の飯に手をつけることもなく、ひたすら横たわっていた。しかし、そんな俺の様子には気づかずに、ナナミは部屋で寝てしまったようだ。 「……ミヤコ?ミヤコ!」 朝か……耳元で声がする。が、もう目を開く力もない。 「待ってて!病院……病院っと……」 おいナナミ。そんなことをしている時間はないだろう?早く行かないと会社に遅刻するぞ? すると、久しく感じていなかったあの温かい手の感触。あぁ、これは全く昔と変わっていない。俺は抱きかかえられたようだ。そして激しい揺れと激しい息遣い。ナナミは俺を抱えて走っているのだろうか。…あまり揺らしてくれるな、そのまま寝かせておいてくれ… ……しばらく気を失ってしまったようだ。気がつくと俺はなにやら固い台の上に寝かされており、目の前には数人の白い服を着た人……そして 「あっ、生きてた!よかったぁ〜!」 「生きてるわ、当たり前だろ」 「辛い?そっかそっか……」 こいつがひとの話を聞いていないのは相変わらずらしい。 というかナナミ、会社はいいのか?……しかしこの部屋、変な匂いがするな。消毒液の匂いか。ダメだ。やはり体は思うように動かない。 「老衰です。もう長くないでしょう」 白い服を着た人が言う。なーに勝手に決めつけてるんだ。俺はそう簡単に死なないぞ。 「そうですか……」 ナナミはそう言いながら俺の頭を撫でる。やめろ、子どもじゃないんだから…… ナナミに撫でられながら俺は急激に眠気を催してきた。まずい、ここで寝てしまってはまたナナミに心配されるし、ナナミが会社に行けなくなってしまう。 しかし、そんな思いとは裏腹に、どんどん意識は薄れていき…… 「……今までありがとうミヤコ、私の大切な友達…」 泣いているのか…?またいつでも話を聞いてやるぞ。だから笑えよ。こんな俺のために泣かないでくれ… 撫でてくれるナナミ手の温もりを感じながら、俺は永い眠りについた。欲を言えば最後にあの美味しい生魚を食べたかったなぁ…。 生まれ変われるなら、次は猫じゃなくて人間に……なりたいな。
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