たべた

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そしてすぐさま、私より遥かに高い身長だけれど、しかし肉付きの良くないその身体にしがみつくように抱き寄せた。 『アダム様、夜気がお身体に触ります』 そう言って光も焦点も定まらぬ、宝石のような瞳を覗き込み、私は宥めながら主の部屋へ急ぐ。 ……更に湯を浸した布で手足を拭い、着替えさせてベッドに運ぶ。 酷く疲れているのか、まるで人形のような我が主の世話は痩せっぽちな私にはとても骨が折れる作業だった。 それでもようやくベッドの中で子供のように安らな寝息を立て始めたあの方を見て、ホッと一息ついたのを覚えている。 それから安心した私は、冷酷にもあの盲目の女の事などすっかり忘れて自分の部屋に引き上げてしまったのだ。 ―――次の朝、私は己の浅はかさを呪う。 あの人狼が。彼が女を、盲目の娘を喰らったのだ。 残された血溜まりと脳髄の染み。臓器の欠片としゃぶり尽くされた骨の数々。 凄惨な光景。地獄とはこの事か、と使用人達は囁き合う。 そしてその事柄に対するアダム様の反応も奇妙な物だった。 ……何も覚えていなかったのだ。何一つ。 改竄と忘却を繰り返された脳内で、自身の吸血の事実は瞬く間に消え失せ、飼い犬に恋人を食い殺された悲劇の男がそこにいた。 そしてあの夜を境に、狂気の世界は幕を開ける。 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■ 「あんた、頭おかしいわね」 私の敵意しか無い言葉にも、この人狼はなんの感情も示さない。 まるでなんの価値もない、とばかりに肩を竦める。 「あんたが食ってきた人達、全部あの方が吸血してきた人達ね?」 そう。吸血され、命を奪われた使用人の肉を、この人狼は『食べた』文字通り、『食べた』のだ。 「証拠隠滅のつもり? 人狼とはここまでおつむが悪いのかしら」 本当にバカだわ。 周囲に恐れられ忌み嫌われるのも構わず、彼は我が主が吸血した事実を消そうと躍起になっている。 食べてしまえば……何も残らない訳ではないのに。 「俺はさ」 人狼、ジャックは小首を傾げ私の態度の意味する感情が分からないとばかりに溜息をついた。 「ただ……酷く腹が減っていただけ」 言い訳も弁解もしない、その瞳はただ穏やかな海のよう。私はそれ以上何も言えず、エプロンの裾を握りしめた。 「そうだ」 彼は突然、花が綻ぶような笑みを浮かべた。 無邪気で美しい。まるで年端もいかぬ少年の笑顔だ。 「アンタの作る飯、すごく美味かったよ」 嗚呼、さっきのメニューね。 彼らが料理人も食べてしまったから、私が作ったのだったのを思い出した。 初めて一人で全て作ったから、あまり自身はなかったのだけれど……。 「そう言えば、アンタの名前……なんだっけ?」 なんて。とぼけた顔で聞くものだから。 私は醜い顔をさらに歪め、意地悪く鼻で笑いながら答える。 「人狼に名乗る、名前なんてないわ」 この名前は私がアダム様から頂いた、大切なモノだもの。 こんな犬ころに聞かせてやるものですか。 ―――私の嫉妬の炎が、またちろちろと燃え上がる気配をそこに感じていた。
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