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2.アルバイトに採用されました
「お客さん」
真っ暗闇の中、頭の上から年配の男性の声が降ってくる。
(えっ? 私に向かって言っているの??)
「着きましたよ」
(着きましたよって、どこに???)
「お客さん!」
ちょっと怒気を含む声にハッと目を開けると、スカートから覗いている膝小僧が見えた。眠りから覚めた直後のように、ちょっとボーッとしているけれど、とにかく頭を上げて声の方へ顔を向ける。
声の主は、運転席に座って前を向いている白髪の運転手さん。後部座席で斜め後ろに座っている私から見て、表情がまるでわからない。
(私、なんで車に乗っているのだろう?)
「さあ、着きましたよ。急ブレーキをかけて申し訳なかったので、お金はいらないから」
(急ブレーキ? いつ?)
状況が飲み込めない私は、運転手さんに尋ねる。前を向いたままの運転手さんの顔を見たいけれど、バックミラーに顔が映らないのが不思議。
「あのー、急ブレーキって――」
「車の陰から道路の真ん中に子供が飛び出したんでね」
「そうですか……。でも、なんで私はこの車に乗っているのですか?」
「忘れたのかい? そこの店でアルバイトをするため、って言ってたけど」
「そこって――」
「そこ!」
運転手さんは私の言葉の上から強めの言葉を重ね、左手の親指で左方向を二度指さす。その方向へ視線を移すと、一面が茶色い壁で四階建ての高さの建物が見えた。幅は高さと同じ。
のっぺりとした感じが、ぱっと見、茶色のポリゴンだ。
建物の左側に人が並んで二人通れる幅の茶色いドアがある。ドアノブはなく、二枚の板がくっついているように見えるので、真ん中から左右に分かれる開き戸かも知れない。
私は、記憶を遡ってみた。すると、短大の入学式から後の記憶が全くないことに気づく。でも、バイトしにここに来たということは……、
(そっか。短大に入ったから、アルバイトをするつもりだったんだ)
だんだんそんな気がしてきた。きっと、ど忘れしたのだ。うん、そうに違いない。高校までずっとぐーたらしているのが好きだった私も、ようやく心を入れ替えたのか。偉いぞ、私。
(でも、黒いスーツを着ているのは不思議。アルバイトでスーツを着るの?)
入学式は私服だったし、お母さんにこのスーツを買ってもらった記憶がないから、レンタルなのだろうか。
まだ訳がわからないことが一杯でモヤモヤするけれど、運転手さんに怒られないように、とにかくお礼を言って車から降りる。すると、ドアが音もなく閉まり、タクシーはエンジン音も立てずに走り去って行った。
一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。だって、普通、排気音とかするでしょう? やっぱり、なんかおかしい。
身の回りで起きていることが不可解な私は、恐る恐る辺りを見渡す。
四車線くらいの幅の道路は、一面が茶色。それは、どこまでも続いている。そう、地平線の果てまでも。
道路の両側の建物は、全て四階建ての高さで、壁は茶色でドアも茶色。作りが同じ建物が、ずっと軒を並べていて、これまた地平線の果てまで続いている。振り返って見ても、同じ光景だ。
これは、ポリゴンの連続。絵の世界――まさか、ファンタジーの世界にでもいるのだろうか。
空は、澄み切った青空で、雲一つない。でも、太陽もない。
タクシーは、いつの間にか見えなくなっていた。道路には、人影もなく、私だけ。
なんだか、青色と茶色しかない世界に置いていかれたみたいだ。
腕時計を見ようとしたけれど、手に着けていない。鞄もなく、手ぶら。どこかに忘れてきたような気もするけれど、何も思い出せない。これが、もどかしい。
と、その時、コンビニ店で聞くようなピンポンピンポンピンポンピンポンというチャイム音がした。音の方へ振り向くと、運転手さんが指さした建物のドアが真ん中から分かれ、左右へスーッと開いた。
そこに現れたのは、私の背丈より頭一つ高くて、でっぷり太ったジャイアントパンダ。服は着ていなくて、普通に二足歩行をするかのように、すっくと立っている。
私は唖然として、口を開けたまま立ち尽くした。
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