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嘔吐
食べるという行為は不思議なもので、一般的に一日に三回も行われる本能に従った作業である。これが人間の三大欲求によるものでなかったら、今頃人は神に対して反逆を起こしていただろう。
別に、私は何かの宗教を信仰しているわけでもなければ、さして興味もないので特別神様に恨みはない。しかし、それだけスケールの大きいもの、それでいて多分寛大な心を持っていてあんまり傷つかなさそうな対象に責任転嫁でもしなければ、やってられないのだ。料理というものを───
眼前には焦げた鍋、こげ茶色のどろどろとした液体。立ち込める焦げ臭い煙に、ほんのり漂うスパイスの香り。言うまでもない、これはカレーになる予定だった、未確認物体だ。
私は現在、ぴっかぴかの社会人一年生。社会に出てそつなく仕事をこなし、飲み会に行けばワイワイ騒げる。そんな世間の共通イメージのような大人になる…はずだった。
実際のところ、ピッカピカなのは仕事帰りに一人寂しく立ち寄った本屋で、題名に惹かれ購入した「自分と向き合う3分間」とかいう自己啓発本だけある。
その本も三分の一ほど読んだあたりで飽きてしまった。正確に言うと、飽きたというよりは気持ち悪くなったのだ。やれ「信じれば道は開ける」だの「心の声に耳を澄ませてみて」だの、硬い印象のフォントと表紙のわりに中身はただの安っぽいポエム集だった。
今では、本棚の奥で埃もかぶることなく安らかに眠っている。
────神や本に思いを馳せている場合ではない、今するべきは片付けであった。焦げた鍋をたわしで洗い、カレーの成り損ないは水で流した。なんだか吐瀉物のようだと、ふと思う。なんて酷い例えだろう。食べ物を見て下品なものを連想する、自分の卑俗な感性に呆れながら鍋を元の位置に戻した。
就職するため上京したのが、つい数か月前。初めての一人暮らしは孤独を感じるものだと友人から伺っていたがそんな余裕はなかった。大学生のころは実家に住んでいたため、料理も掃除も洗濯も、すべて親がやってくれていた。その結果がこの有様である。
掃除と洗濯はそれぞれ掃除機と洗濯機という現代の文明を最大限生かした道具がこなしてくれるため、さほど苦労しなかった。しかし、料理は違う。なぜなら、この世にまだ「料理機」なんて物は存在しないからだ。料理とは、狩猟、採集の旧石器時代から情報社会の現代にかけて廃れることなく人の手で行われてきた歴史ある文化なのである。
まあ、カレーすら作ることのできない私が言っても、何の説得力も無いが。
とりあえず、お湯を沸かしてインスタントラーメンを食べる。排水溝に流れたカレーのことは忘れよう。脂っぽい汁をもったいないからと飲み干し、カップをゴミ箱に捨てて、その日の食事は終わった。また明日、何か作ればいいや。
朝起きて、仕事場に向かう。足並みそろえて駅の改札に向かう、東京の人の流れに私はまだ慣れないでいた。会社に着くと自分の席に座り、作業を始める。昨日となんら変わらない日々に、どこか焦りを抱いていた。
すっかり日は落ちて、今日の夕飯を考えていた時、突然上司から声をかけられた。「今日、飲みに行かないか」と。
断りづらいったらありゃしない。仮に断るとしても何と言えばいい?
「すみません、今日は晩御飯を作らなくてはいけないので…」
なんて、ばかばかしくて言えたものじゃない。仕方ない。社会に出る者、時として理不尽にも従わなくてはならない。おそらく、ぎこちなく見えているであろう精いっぱいの作り笑顔を上司に向けて、「はい」と返事をする。
現在、時刻11時。案の定、空になったジョッキがテーブルに所狭しと並んでいる。酒に痺れた舌では、つまみの味もただの塩味としか認識されない。スルメは海の中、枝豆は土の上。それぞれ多種多様なルートをたどってこのテーブルに並んでいるというのに、人が口に入れたとたんに他と区別されない食材が、かわいそうな気がしてきた。
まあ、死んでる時点でかわいそうも何も無いんだけど。
もともと飲めない私は、ジョッキはそれなりの角度をつけて傾けるが、唇はあまり開かないようにして、体内に入る酒の量を減らすという高度なテクニックを習得していた。
あたかも普通に飲んでいる体を装うのである。そうでもしないと、周りに楽しんでいないと思われ、余計に浮いてしまう。
この無駄なスキルのおかげで今、私の隣で脱力して立てなくなっている、この女子社員のようにならなくて済むのである。
─────この人、この後どうするのだろうか?自力で立てない以上、自宅に一人で帰るのは困難に思えた。かといって、私が関与するのはおかしな話だ。薄情だろうか。
結局、その女子社員の行く末を見送ることなく、飲み会は解散となった。まだギリギリ終電に間に合うので急ぎ足で駅に向かう。
ああ、今日こそ料理を成功させるつもりだったのに。
「お、新人ちゃんも楽しんでくれたかな?また、飲みに行こうな」
「はい、そうですね」
「楽しい」を装った社交辞令はどこか空虚で、心に穴が開いたような気分になった。やっぱり、こういった賑やかな場は性に合わない。これなら、独り虚しく焦げた鍋を洗う方がマシだ。
アパートの扉を開けて、誰もいない部屋に向かって「ただいま」と言う。当たり前だがもう「おかえり」は返ってこない。しかし、寂しくは感じなかった。むしろ、あれだけ騒がしい場に身を置いていたのだ。誰もいない静寂が今は愛おしかった。
テレビを点けて、録画していたドラマを再生する。が、すぐに異変に気が付く。おかしい。私は気難しい探偵と世話焼きな助手が、華麗に事件を解決するドラマを録ったはずだ。なのに今、画面に映っているのはサバンナでチーターがウサギを追いかけているシーンだ。あまりにも違いすぎる。
よく見ると画面上部、小さな字で「本日は一部、番組内容を変更してお送りしております」と書いてあった。ちゃんと調べておけばよかった。今のご時世、スマホで何でも一瞬で情報が手に入るというのに。
終わってしまったものをいつまでも悔やんでいても仕方がない。この後のネット配信がないかだけでも調べてみよう。と、スマホを握った瞬間、にちゃ、ぐちゃと生々しい音が聞こえた。思わずテレビの画面を見ると、チーターがウサギの腹に噛みついて、肉を引きちぎっているシーンだった。これ、テレビで放送して大丈夫なのだろうか…?想像以上の生々しさに軽く吐き気を覚える。
気持ち悪いはずなのに、目が離せないのは何故だろう。ウサギの肉の繊維が皮から剥がれてチーターの牙に絡めとられていく。黄金色の顔の周りが赤黒く塗られていく様を唯々見守ることしかできなかった。かわいそうなんて思っても仕方がない。
────今見ているこれは画面に映る事象でしかなくて、実際にはもうウサギはとっくの昔に死んでいるのだから。弱肉強食、これが自然の摂理なのだ。
今日も、ろくなものを食べなかったと反省しつつ、瞳を閉じた。味という個性を無視されたおつまみや、まだ記憶に新しい八つ裂きになったウサギが脳裏をよぎる。考えるのはよそう。また明日も今日と同じ日々を繰り返すだけ───
翌朝、出勤すると社内の雰囲気がいつもと違っていた。原因は明らかだ。昨日の女子社員だ。そして、そのまわりを複数の他の社員が囲んでいた。どうやら、彼女を慰めているみたいだ。あの独特の、「皆どうしていいか明確には分からないが、放っておくのも気が引ける」というような雰囲気が漂っていた。
いつもは化粧で盛っているとはいえ、ぱっちりと開いていたはずの大きな目は、赤く充血して腫れぼったく膨れ上がっている。
高級そうなファンデーションを塗った、滑らかな肌はその化粧の上からでも青ざめているのがわかる。
────昨晩何かあったに違いない。私が彼女を見捨てたあの後に何か……嫌な予感しかしない。
「ねえ、あなた昨日の飲み会にいたんでしょ?」
あ、捕まった。厄介なことになるぞ、これは。
「えぇ、はい。上司に誘われたので…行きましたが」
それとなく、自分の意思ではない。あくまで権力に逆らえなくて、しぶしぶ行かざるを得なかったというニュアンスを醸し出す。
「なにか、聞いてない?上司がその、なにか…したとか…その時のこと、証拠が欲しいの」
「なにか」なんて内容をぼかす言葉を多用する割に、証拠などという明らかに、事件が起きてでもいないと使わない言葉が飛び出るなんて…もう、昨日何があったかは明らかだ。あくまで真実だけを冷静に答える。
「いえ、私は飲み会が終わったらすぐに帰ったので何も…」
「そっか…ごめんね。また、何かわかったら教えて」
また、なんて機会はないだろう。こういう事は見守っているのが一番だ。かわいそうではあるけれど。
いつも通り、仕事をこなす。目を焼くようなパソコンの光に晒されて、心身ともに疲労がたまる。
昨日と同じ日々に何か違和感を感じる。本当にこれで良いのだろうか。私は、間違ったことこそしていないが、何一つとして正しいこともしていない気がする。
モヤモヤする自分の心に苛立ちを覚え始めていたその時、不意に後ろから声を掛けられる。
「あの、ご相談がありまして…この後、お時間ありますか?」
やっぱり、さっきの女子社員だ。お時間と言われても、予定がなければ家に帰って料理を作り、あとは寝るだけだが…
────東京に来て数か月。何か刺激があるかと思えば、食っては寝てのくだらない日々が続くだけ。街のネオンも見慣れてしまえばただの背景だ。何か、刺激を。このままでは嫌だ。得体のしれない社会の法則に無性に抗いたくなった。このつまらない機械的な日々が日常になる前に。
「はい、大丈夫ですよ。どこ行きましょうか」
今が転機な気がした。定時で会社を立ち去り、女二人で街に繰り出す。適当なカフェでコーヒーを飲みながら、例の一件について相談に乗った。
「それで、相談があるって言ってましたけど…」
「…はい。実はあの飲み会の後、上司に声をかけられて、そのまま…」
そこまで言うと、彼女はテーブルに視線を落としたまま俯いてしまった。やっぱり、予想どおりだ。まあ、確かに言いにくい内容であることは理解できるが、相談という名目でこちらも時間を割いた以上は、もう少し具体的に話してもらわないとコメントができない。
「そのまま…?」
「────ホテルに。…やっぱり私が悪いのでしょうか?嫌って言っても『お前がそんなに酔っているから悪い』と言われてしまって」
「いや、あなたは悪くないと思います…上司が権力に物言わせてセクハラしたのですから。あっちに非がありますよ」
「そうですよね。次の日、会社に行ったらどんな反応されるだろうって気になってて、心配していたんですけど、皆さん優しくしてくださって…」
真偽のほどは分からないが、今ここでは彼女の望む言葉を与えておく。そうでもしないと泣き出してしまいそうな顔をしていたから。周りに他の客がいる以上、目立つような真似はされたくない。
「今日の朝、何人かあなたの周りに集まって心配していましたよね。その時には今の事実は公表したんですか?」
「……いいえ。実は、今朝あなたに証拠はないかと声をかけた人いたでしょう。あの人はね…上司の愛人なんですよ。」
まさかの事態に驚きを隠せない。なるほど。あの人は彼女のことを心配して私に情報提供を求めたのではない。おそらく、彼女が上司と一夜を共にしたことを知って、私に訊いてそれが本当かどうか確かめるつもりだったのだろう。そのための「証拠」というわけだ。証拠さえあれば、上司にこれはどういうことかと問い詰められるからだ。
「つまり、昨晩のことを知っているのは私とあなたと愛人の三人ってわけですね」
「おそらくは、そうなります。このままだと、会社で昨晩のことを言いふらされるんじゃないかって不安になってしまって…」
そのあともポツリとこぼれ出る彼女の話を聞いては、当たり障りのない返事を繰り返した。ふと、目線を落とすと、いつの間にかコーヒーが残り二口ぶんしか残っていなかった。全然飲んだ実感がわかない。周りを見れば、ふわふわのホイップの乗ったコーヒーや、イチゴのケーキなど洒落た食べ物が並んでいる。
友達とぺちゃくちゃ喋りながら食べているあの女性は、果たして本当に食べ物の味を分かっているのだろうか。一人で新聞を読みながらコーヒーを飲むあの男性は何を考えているだろうか。地球の裏側、ブラジルから遥々やってきたコーヒー豆も、粉になって街に出たら、最初の一口の「おいしいね」を共有する道具でしかない。
二時間ほど話し込んだ後、彼女と連絡先を交換してから別れた。話を聞いてもらえてスッキリしたのか、店に入ったときより心なしか顔色がよく見えた。まあ、店の電球色の明かりのせいでオレンジっぽく見えていただけかもしれないが。
駅に向かって歩く人の群れを照らし出すように、巨大な電光掲示板が新しいアプリの宣伝を垂れ流している。最近話題の若手のお笑い芸人が、身振り手振りで大げさなリアクションを取っている。この人たちは後三か月後も、ディスプレイに映り続ける存在でいられるだろうか。
テレビ、動画サイト、街の広告。あらゆるところに潜むエンターテイメントを私たちは目で食い荒らし、楽しさという栄養に変え、忘れる事で消化している。一見華やかに彩られたように見えても、その実態は生々しい食事となんら変わらないのである。
駅について改札をくぐるためICカードを探す。ポケットに入れていたはずなのに、その中にはスマホしか入っていなかった。邪魔にならないように横にそれて、バッグの中を漁っていると、手に持っていたスマホがブブッと音を立てて震えた。さっきの彼女からだ。通知を確認する。
「かふぇでてみぎ えきのうら」
─────行かなければ。何かあったに違いない。
走る。ただ、ひたすらに人をかき分けて走る。都会の雑踏を切り裂くように、街の明かりを置いていくように。なぜ走るのかは考えられなかった。ただ、何となくそうしなければ取り返しのつかないことになると直感で感じた。
駅の裏の、少し細い道に足を踏み入れると、やはり姿が見えた。
上司が女子社員をホテルに連れ込もうとしている。強者が弱者を食らう。教育番組で、チーターがウサギを食べていた。確かに「食べるという行為は」本能に根差すもの。必死に腕を振って抵抗するも、圧倒的な肉体的な力と権力を持った存在にはかなわない。
街の輝かしいネオンが剥がれ、一気に周りが広大な自然のサバンナに変わる。これは一種の補食動作なのだ。人間、どれだけ文化や情報で着飾っても所詮、動物である。私はこの生々しさに耐えられなくなって、思わず叫んだ。
「離せっ…!」
人ごみ溢れるメインストリートに比べ、人が少ない裏路地では、案外声が響いた。スマホを構えた私を見て、上司はあっさり彼女の手を離した。
震える肩に寄り添いながら、私は彼女に声をかける。
「大丈夫ですよ。怖かったら、家まで送っていきますから」
「…いえ、心配はありがたいですがお断りさせていただきます。この震えは、その、襲われそうになったことへではなくて…」
「…?」
「私…仕事、クビになっちゃうみたいです」
ひらりと細い手首を返して、震える手で私にスマホの画面を向ける。そこには社内のライングループに投稿された、酒で頬の赤らんだ半裸の女性の写真があった。背景からしてホテルで撮られたことが分かる。
「今までありがとうございました。私、あなたのこと最初はちょっと怖い人なのかなって思っていましたけど、全然そんなことなかったですね。それどころか、こんなに良くしてくれて……この恩を何も返せないまま、いなくなることを許して下さいね」
呆然と立ち尽くす私の横を通って、彼女は都会の街並みに消えた。もう、会うことはないのだろう。彼女は社会の闇に食われて消化されてしまう運命にあるのだから。これからも事あるたびにあの写真を突き付けられて、骨の髄までしゃぶりつくされて、うまみが出なくなったら捨てられるのだ。
────私にできることはもう、何もなかった。
家に帰って豚肉とピーマンを切る。次に奮発して買ったタケノコ。それをレトルトのチンジャオロースの元で炒めたら、あっという間にそれなりのご飯の完成だ。
仕事で忙しかった母の料理はたいていレトルトの味だったが、それがどこのどんな家庭で食べられていたとしても、今食べているこの料理は確かに昔食べた「母の味」だったのである。ふと、都会の穢れを知らないあの頃が懐かしく感じた。
しかし、誰と食べようと味は変わらない。口に含む成分は変わらないのだから。カツ、カツと皿に箸がぶつかる音だけが部屋に響く。食欲をそそるように設計された味が思考能力を低下させていく。レトルトメーカーの思惑に乗せられて、一切手を止めることなく一パック分である三人前のチンジャオロースを口にかきこむ。
全て食べ終わって、満腹感から動けなくなってしまった。三分間ほど体は一切動かさず、ただ頭の中だけが稼働している。なんだっけ。「自分と向き合う3分間」だっけ。正義を信じて開けた道が世間から追い出されることで、心の声に耳を澄ませば、いつだって汚らしい社会に中指を立てるような言葉ばかりだ。
私は怒っていたのだ。強いものを見て何もできない自分に苛立ちと焦りを覚えていたのだ。もう、すべて吐いてしまおう。汚らしい都会の足音。逆らえない権力の理不尽。社会から追い出され、弱者の烙印を押された自分。今となっては、ただ自分を昔に繋ぎとめる枷となった母の味。
自分の意思とは無関係に、お腹に力がこもる。その反動で思わず身体が二つに曲がる。しかし、私はすぐに前に向き直った。そんな惨めに、謝罪するように腰を折る必要などないのだ。へこへこするな、せっかく吐くなら堂々と吐いてやれ。胃液が本来の道に抗って上昇していく。少し上を向き、喉に手を当ててその過程をじっくりと体感した。まるで首でも絞めるかのようだが、あくまで手は添えるだけ。胃液の酸が喉を焼くように、私も焦がれていた。世の規範に逆らうことを。誰にも知られず、人に迷惑のかからない場所で。
みっともないだろうか。吐き気がしてもトイレに行く気は起きなかった。ただ突っ立て、逆流した吐瀉物を垂れ流すだけである。胃液を含んだそれは、ビシャと音を立てると、まだ新しいテーブルの上を汚し、床にも盛大にシミをつくった。
鼻に付くすっぱい独特の臭いが部屋に充満する。それでも、まだ外の空気に比べたら幾分か綺麗な気がしてきた。
これで私はからっぽだ。胃も、心も、頭も、なんにもない。完全にリセットされたのだ。明日のことなど、誰にも分からない。過去も未来もすべて汚物とみなし、捨ててしまった。ただ一つ分かることがあるとすれば、何にも従わなくていい、確かな自由がそこにあるのだ。
─────あぁ、明日、私は何を食らって生きるのだろう。
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