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「とっ……透子ちゃん……なんてこと……」
矢紘が愕然としていると、透子は目の前にどんぶりの乗った盆を置いた。
「そんなやつれた顔して作った曲が人の心に響くと思うか? おまえの音楽は愛してるがな、私はそんなの求めちゃいないぞ」
うどんの湯気と共に透子の胸元が揺れる。視覚も嗅覚も刺激されて、湧き出してくる唾を止められずごくりと飲み込む。
「ぼくは……透子ちゃんを食べたい」
決死の覚悟で言ったのに、ぼさぼさの頭をはたかれてしまった。
「ばかなこと言ってないで、さっさと食いな!」
そう叫んで立ち上がり、透子は背中を向けた。おくれ毛のある首筋と、見え隠れする耳たぶが真っ赤になっている。
リノリウムの床に直置きされた盆とうどんを、正座してじっと見つめる。ギターに湯気がかかるのはまずいと思い、そっとスタンドに立てかける。
「……レコーディングが無事終わったら、考えてやるよ」
背中を向けたままそう言って、彼女はスタジオを出た。防音扉の閉まる音がやわらかに響く。
めん処透子って言ってた、透子ちゃんが作ってくれたのかなと考えながら、かきたまうどんを見つめる。淡い黄色のたまごが出汁の上に浮かんでふわふわと揺れている。控えめなかまぼこ、そっと添えられたねぎ。盆の上には箸と七味唐辛子が乗せられている。
「……いただきます」
音の魔物のことはどうでもよくなって、うどんを貪り食った。三日ぶりのまともな食事だった。出汁の深い味わいとか、そんなことはどうでもよくて泣きそうになりながら温かな麺をすすり上げた。耳たぶを真っ赤にした透子のうしろ姿を思い出しながら、何がなんでも今日の夕方までには完成させてやると憤った。
彼女が作ったうどんは五臓六腑に染みわたって、矢紘の奥底に眠る意欲を奮い立たせた。汁の一滴まで飲み干して、ギターにかじりついた。鬼のような形相であふれ出る音色を紙に書き留めていく。
瞬く間に時間が過ぎ、3曲が完成した。満ち足りて床に寝転がると同時に、深い眠りに落ちてしまった。
矢紘が目を覚ますと、耳元に柔らかなぬくもりがあった。透子が膝枕をしながら、矢紘の髪をなでていた。書き散らした歌詞とコードのメモや譜面がスタジオいっぱいに散乱している。
性欲は満たされないけど、心は満ち足りたきもちでいっぱいだった。これで明日は安心してレコーディングにのぞめる――
「……って、ベースラインとドラムパターン考えてない!」
矢紘は体を跳ね起こした。よだれを袖でぬぐい、床に座っている透子を見る。
「そこは私に任せな」
透子はにかっと笑って胸を叩いた。彼女の手にある真新しい譜面とドラムスティックを見て、まったくほんとにこの人は、と脱力した。
音の魔物は消え去ってしまったけれど、目の前に透子がいた。凛々しく胸をはる彼女は、矢紘の曲を魔法のようにアレンジしてしまう素敵な魔女だった。
音の魔物は目に見えないし、かたちもない。けれどスタジオや街中や雨空や自然、そこら中に浮遊して矢紘に囁きかける。時に優しく、時に大胆に、朗らかに、したたかにこの身を脅かす。負けるものかと踏ん張る度にふいと逃げてしまって取り逃す。なのに気づけばこの手の中にある。透子と分かち合うこともできる。
出汁の香りが漂うスタジオの中、彼女の手を取り、矢紘はアコースティックギターをかかげた。
(おわり)
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