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音の魔物は食べると逃げる
矢紘は天井を見上げていた。
背中には床、腹の上にはアコースティックギター、周囲には紙や鉛筆、書き散らした譜面が散乱している。浮かんでは消えるメロディを捕まえるため空腹状態を乗りこえ、空中に潜む音色に耳を澄ませる。
薄汚いスタジオの天井にだって、音の魔物は住んでいる。聞こえる、あともう少しで曲という入れ物に放り込める。あのきらきらのかけらたちをこの手で――
あれだ見つけた! と思った瞬間、腹の虫が鳴り響いた。
「おなか……へった」
ギターを抱え床に寝そべったままつぶやくと、音の魔物は姿を消した。ため息をついて弦をかき鳴らす。Am7の物悲しい音色がスタジオに響く。
明日からレコーディングだというのに、完成していない曲が三曲もある。この部屋は事務所の好意で融通してもらい一か月も籠りきりだが、レコーディングスタジオはそうはいかない。デビューして間もない遠海矢紘の都合で日を変更してくれたりはしないのだ。
今回はボーカル&ギターの他に、ベース、ピアノ、細かいパーカッションの音入れも自分でやるつもりだった。アルバムを二枚しか出していない新人の暴挙に応えてくれたのは、アレンジャーの金井透子だった。
齢三十になろうかという彼女は敏腕の編曲者で、アコースティックギターのみで作った矢紘のデビュー曲を、まるで魔法をかけたように大衆受けするものに編曲した。編曲された自分の曲を初めて聞いたとき、おお、魔女だ、まちがいない、と思わず口にしてしまい、その場で頭をぶん殴られた。
彼女にはアレンジャーの他に、もうひとつ顔がある。それが――
「曲、できたんだろうね!」
スタジオの防音扉を荒々しく開けたのは上下スポーツウェアの透子だった。ライブの時は煌びやかにたなびくロングヘアを、ここ数日は頭のてっぺんで無造作にまとめている。
寝そべっていた矢紘は思わず体を起こした。苦し紛れにギターの弦をなでると、腹の虫が侘しく鳴いた。
「……あんた、いつからメシ食ってないの?」
矢紘の顔をまじまじと見ながら言う。矢紘に付き合ってスタジオ近くのホテルで寝泊まりしている彼女は、時々アルバム作りの進行を確かめにくる。彼女はアレンジの他にも大きな仕事があるので決して人事ではないのだ。
「……いつって」
矢紘が力なくつぶやくと、高身長の透子がすぐ目の前まで迫ってきた。
「最後にメシ食ったのいつかって聞いてんの」
「……おととい? いやその前の昼かな」
「はあ?!」
そう言うなり強引に矢紘の腕を引いた。ストラップはつけているがギターが不安定に揺らいだのであわててかばう。
「メシ食わないで曲ができるわけないでしょ、食堂行くよ!」
あんたはほんとに、と独りごちながら腕を引かれたので、思わずその力に反抗した。
「いっ、いやだー! 絶対食べないから!」
「なんでよ?! 食べなきゃレコーディングどころじゃないでしょ!」
「食べたら音の魔物がとんじゃう!」
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