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カエルの子はカエル
こうなったら手段を選んでいる場合ではない。
雪見は一大決心を胸に銀座の文具店に乗り込んだ。継母には文化祭の準備で帰りは遅くなると伝えたから、怪しまれはしない、はずだ。
『彼』に出逢ってから早三ヶ月。週二で通っているだけあってシフトも大方把握していた。狙い目は水曜日。客足も比較的落ち着いている上、週の半ばなので早めにバイトを切り上げる。
雪見の読み通り、八時五分前の時点で『彼』は上司と思しき女性に「お疲れ様」と声を掛けられた。軽く黙礼して『彼』はカウンターから出て、万年筆売り場の端にある従業員用の部屋へ。ドアノブに手を掛けたところで、慌てて雪見は声を掛けた。
「あの」
大学生か、それとも社会人か。
自分よりも年上なのは確かだ。その上、とてもじゃないが優しい顔立ちとは言えない。むしろ今にも殴りかかってきそうな雰囲気をまとっているので、雪見は及び腰になる。
「すみません、私……」
怪訝な顔で振り向いた青年は、への字に結んでいた口を開けた。
「あ」
「え?」
思わず後ずさった雪見の顔を凝視。次いでつま先から頭のてっぺんまで一通り見て、青年は盛大な舌打ちをした。
「悪ィけど」青年はめんどくさそうに言った「俺、ザイバツとか逆玉とかあんま興味ねーし、コレでも受験生だし誰とも付き合う気ねェから」
雪見は口をぽかんと開けた。ほぼ初対面であるはずの青年に何故非交際宣言をされているのかがわからなかった。
「わかんねーの? おめーは全然タイプじゃねェって言ってんだよ」
一方的に告げると青年は踵を返した。雪見はそこで我に返った。イマイチ言っていることは理解できないが、何らかの理由で青年は自分に悪感情を持っていて、関わる気がないということだけは察した。
「え、あ……いや、待っ」
青年は全く聞く耳を持たず、関係者以外立ち入り禁止のプレートのついた扉を開けた。
「待ってください、話を」
「ンだよ、しつけーな」
払おうとした青年の手が偶然、雪見のそれに触れた。正確には『はたいた』のだが、千載一遇のチャンスを逃す雪見ではなかった。考えるよりも早かった。条件反射のように手は青年のそれを掴んでいた。
やらかしてから、雪見ははたと気づいた。視線を落とせば、自分の手と青年の手が握手をしているかのごとくつながっている。
掴んだ。
触っている。
ここ三ヶ月ずっと見続けていた『彼』の手に。
その事実は雪見に大そうな衝撃と感動を与えた。
「うわぁ……っ」
感嘆の声が漏れた。人前だとか相手が怒り心頭に発していることも忘れて、雪見は自分より一回り近く大きい手を矯めつ眇めつした。
「いい」
「は?」
「指長いって言われたこと、ありませんか?」
「あ、まあ……あるけど」
「やっぱり、そうですよね。近くで見るとほんと綺麗です」
雪見は掴んだ手の甲を下向きに伸ばした。網の目状の皮静脈がより浮き彫りになる。何かスポーツをしているのだろう。女性はもちろん、他の男性と比べても静脈が見えやすく、骨ばっている。
「キレイなわけねェだろ、こんなマメだらけの手が」
「スペシャリストの手ですよ。そんじょそこらのつるつる手なんかとは比べ物になりません。あ、この角度。これです。この人差し指の伸筋が、」
「シン、キン……?」
「これです」雪見は青年の指を曲げさせて、ひっかくようなポーズをさせた「指の根本から手首に向かって伸びてるこの筋です。これが心筋の健。それにしても男性の手って硬いんですね。爪も健康的で。でも、指先の皮膚が少し厚い……ということは、書道とか剣道とか楽器とか、普段は何か指を使うお仕事をされているのでしょうか?」
「オイこら待て」
「ああっ」
青年は強引に自身の左手を奪い返した。
「ストップ。やめろ。とにかく待て」
追い縋ろうとした雪見を制して、青年は一つ息を吐いた。
「聞いてた話とだいぶ違ェんだけど、どーいうこと?」
「はなし?」
雪見は首をかしげた。
「一体なんのことですか」
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