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ストーカーと被害者
ーーのだが、まさか見学者が現れるなり、自分が吠えることになろうとは千歳も思わなかった。
「なんでテメエがここにいんだよ!」
顧問の教師に連れてやってきたのは、伊藤雪見だった。胸元の赤いリボンが特徴の栄光女子学院の制服姿。大きなスケッチブックを抱えた雪見の肩が小さく跳ねた。
「あ、あの、見学を……」
「音楽家志望でもねえのに?」
雪見は返答に詰まった。魂胆見え見え。呆れたオジョウサマだ。
「知り合いか?」
千歳と雪見の顔を交互に見て響が訊ねる。知り合いと言えば、たしかにお互いのことは知っている。が、そんな生やさしい関係ではなかった。
「ストーカーと被害者」
端的に説明する。途端、雪見は驚愕と疑惑に満ちた眼差しを千歳に向けた。
「え、まさか、秋本さんが……っ」
「アホかストーカーはてめえだろ! 拉致拘束監禁の上、学校にまで押しかけてきやがって。今度はどの母親のお膳立てだ」
「やめんか、秋本」
顧問教師の神崎凛子が手にしていた総譜で頭を叩く。
「栄光女子学院の教師からの依頼だ。絵を描くためにスケッチだかデッサンだかよくわからんが、参考にしたいそうだ。練習の邪魔はしないというし、見られたところで減るようなものでもない」
付随するように雪見は何度も頷いた。右手にスケッチブック、左手に鉛筆と準備は万端だ。
「俺のやる気が削がれんだけど」
「もともと大してないだろ」
凛子は取り合わず、雪見を椅子に座らせた。楽団の真正面。つまりはファースト・ヴァイオリンの目の前だ。よりにもよって、一番千歳に近い場所。
抗議する前にさっさと凛子は指揮台に登ってしまった。総譜を広げて「やるぞ」と指揮者に言われてしまえば部員は従う他ない。
あきらめて千歳はヴァイオリンを構えた。オーボエの音に合わせて調律。オーケストラ全体の音が合わさる頃には、意識は目の前の楽譜と、指揮者に向けられていた。
「見学者がいようと私の指導方針は変わらない。無様な姿を晒したくなければ、必死についてくることだ」
なんとも心強い激励と共に凛子は指揮棒を振り上げた。とても二児の母とは思えない豪胆さ。体育会系気質の原因は顧問にもあるのだろうと千歳は思った。
ゲオルク=フリードリヒ=ヘンデル作曲の『メサイア』は三部構成、合計五十二曲のオラトリオ〈聖譚曲〉だ。演奏時間も相応で約二時間半という、クラシック曲の中でも長い大曲だった。わずか一ヶ月程度でヘンデルはこの大曲を完成させたのだというから驚きだ。
当然ながら、たかが音楽科高校生の寄せ集めオーケストラが全てを演奏することはできない。個々の技術はともかくとして練習量が足りなさ過ぎる。冬の定期演奏会にやってくる客もそれほどクラシックに精通しているわけでもないので、二時間半もの演奏には耐えられないだろう。結果として『序曲』やハレルヤコーラスでお馴染みの第二部最終曲『Hallelujah』など主要な曲を抜粋して演奏することになったのだ。
賢明な判断だし、千歳としても異論はない。だらだらと全曲やっても得られるのは演奏者本人の達成感だけだ。省略結構。ただ、一つだけ問題が浮上する。
(なまじ有名な分、聴衆の耳はシビアになんだよなぁ)
弦楽器の旋律が絡み合う『序曲』は一つでも弦楽パートが乱れたら総崩れになるし、その上『Hallelujah』は合唱部との合同演奏だ。文化祭の演目もこなしつつあと四ヶ月で聴くに耐えうるまで完成度を高めなければならない。時間はいくらあっても足りなかった。
そう、自分は忙しいのだ。手フェチのオジョウサマとそのモンスターマザーに構っている暇はない。嵐に見舞われたのだと思って、過ぎ去るのをひたすら待てばいい。わかっている。わかっているのだが。
「いい加減にしろ」
演奏途中だろうが何のその、千歳はヴァイオリンを置いて、立ち上がる。椅子から身を乗り出していた雪見の首根っこを掴んだ。
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