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猫の肉球
「は?」
「出てけ」
コンサートマスターの突然の離脱に、ちょうど再現部ーー盛り上がる部分に差し掛かっていた演奏が止まる。
「秋本!」
凛子の叱責も無視。千歳は雪見を引きずって音楽室を出て行った。音楽科棟と普通科棟をつなぐ渡り廊下に差し掛かったところで放り捨てる。
「何なんだよさっきからジロジロと!」
「い、いくつかスケッチを」
「俺の手ばっかりな。近ェんだよ。弾いてる真っ最中に顔寄せんな。あやうく弓で顔面殴るところだったわ」
「ご心配には及びません。ちゃんと避けますから」
「邪魔だっつってんの!」
一喝すると雪見は小さく悲鳴を上げた。明らかに怯えた表情をされ、千歳の勢いも削がれる。
「……すみません」
雪見はうなだれた。
「練習を見学させていただくだけなら秋本さんのお時間を割かずに済むので、ご迷惑にもならないしお金もかからないと」
「金持ちのくせにセコイな、おまえ」
ますます雪見は萎縮し「今月のお小遣いを使い果たしてしまいまして」と力無く答えた。
母親にねだるなり借りるなりすればいいのに。あれだけ過保護な母親達なら五千円どころか五万円だろうがあっさり渡しそうだ。頭に浮かんだ考えをしかし、口にすることは憚れた。オジョウサマにはオジョウサマなりの事情があるのかもしれない。
千歳はようやく、相手が二学年下の女子高生であることを思い出した。ずいぶんと特殊な家庭環境であることを除けば、まだ高校生になったばかりなのだ。大人気ない自分を少し反省したーーほんの少しだけだが。
「とにかく俺はモデルになんねェから、あきらめて帰れ」
「それはできません」
先ほどまでの殊勝な態度は何処へやら。雪見はキッパリと断った。
「おめー、話聞いてた?」
「はい。モデルになりたくないと」
「『なんねェ』つったんだよ。決定事項。変更なし。試合終了。おめーは断られたんだよ。さっさと帰って猫の肉球でも描いてろ」
雪見は怪訝そうに眉を寄せた。
「秋本さんの手と猫の手はかなり違いますよ?」
「当たり前だろーが! 一緒にすんな!」
千歳は疲労感に目眩がした。意思疎通がなっていない。金持ちのことを別世界の住人と言うがこのオジョウサマはまさにそれだ。同じ言語を解する人種とは思えなかった。
「秋本さん、どうしたら絵を描かせていただけますか?」
こちらの疲労などまるで頓着せず、雪見は訊ねてきた。
「時給千円はなんとかご用意します……後払いになりますけど」
「金の問題じゃねェ。嫌なんだよ。メンドクセェし」
「そこをなんとか」
「ヤダ」
突っぱねる千歳。引き下がらない雪見。拮抗状態の二人の傍らを体操着姿の女子生徒達が通り過ぎる。ダンス部だ。体育館での予行練習が終わったらしい。
「お願いです、出来ることなら何でもしますから」
千歳は胡乱な眼差しを雪見に向けた。
「なんでも、ねぇ……」
おいそれと口にしていい言葉ではない。深く考えもせずにそんなことを言う世間知らずのオジョウサマに、千歳は苛立った。
音楽室に戻らなければ、合奏の練習時間が終わってしまう。その後は部屋を移動してのパート練習。さらに体育館でのステージ練習も予定している。
人の往来の多い渡り廊下で、オジョウサマの嗜みに付き合っている場合ではないのだ。ステージ設営だって響か自分が音頭を取らなければ進まないだろうしーー
「お、そうだ。いいこと思いついた」
拉致拘束監禁、その上学校にまで押しかけて自分を煩わせたのだ。少しくらいはこのオジョウサマに痛い目を見てもらわないと千歳の気が済まない。
「俺の絵がどーしても描きたいんだよな?」
「はい。ぜひ」
何も知らない雪見は目を輝かせた。思惑通り。千歳は底意地の悪い笑みを浮かべた。
「なら、おめーの根性、見せてもらおうじゃねェの」
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