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形勢逆転
「ギブアップしたんですか?」
パート練習を早めに切り上げた玲一が、様子を見にやってきた。千歳が押し付けたヴァイオリンも持っているので両手が塞がっていた。
「こんな高いものを他人に預けないでくださいよ」
「おめーのよりは安いわ」
自分のヴァイオリンを受け取る。玲一のよりは若干安価だが、立派なオールドヴァイオリン。暗めの木目にニスの光沢。音は無論、デザインも気に入っていたーーある一点を除けば、だが。
「ひとりでやるんだとよ」
吹奏楽部の邪魔にならないよう壁際に寄って、千歳はステージ前に目を向けた。
あらかじめ手順を決めていたのだろう。雪見の手際は良かった。まずは指揮台の位置を決めて、譜面台を一脚。その左側はファーストヴァイオリン。人数分のイスを二列に並べてーーそう、パイプイス。部室から運ばなければいけないはずの。
「なんでイスがあんだよ」
吹奏楽部が残したイスを雪見は至極当然のように使って整列させた。吹奏楽団と管弦楽団では編成が違うので、さすがにそのままというわけにはいかない。しかし総合計数はほぼ同じだ。イスがそっくりそのまま使えるのなら、あとは編成表を確認しながら並べればいい。音楽室から運ぶよりはずっと効率的で、簡単だった。
パイプイスが使えるのであれば、の話だが。
「セッティングはしなくていいのか?」
他の部員を引き連れた響が訊ねた。雪見一人では間に合わないだろうと、千歳があらかじめステージ練習開始時間前に集合するように指示していたからだ。
「……しなくていいみたいです」
玲一が代わりに返答。
非常に奇妙な状況だった。七十人もの管弦楽団員が見守る中、一人の女子高校生がせせ細やかに動き回って譜面台の角度を調節したり、イスを整列させている。
千歳は舌打ちして、ステージ前に向かった。
「おい」自分より頭一つ分は低い背中に声を掛ける「なんで吹部のが」
「すみませんが、お話はあとにしてください。間に合わなくなりますので」
穏やかだがきっぱりとした口調で雪見は遮った。自分が言い出した手前、千歳は引き下がらざるを得ない。ただ阿呆みたいに突っ立っているしかなかった。
七十人もいながら誰も手助けする者はなく、一人孤独に設営する雪見にはしかし、悲壮感はまるでない。むしろ楽しげで、なんだかよくわからない歌さえ口ずさんでいる。
コントラバス用の譜面台を高く設定して、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。千歳が渡した編成表だ。表と現状を指差しつつ最終チェック。
満足気に頷いて、雪見は千歳を振り返った。
「いかがでしょうか?」
笑顔が眩しかった。勝負に勝ったという優越的な態度ではなく、純粋な達成感。ただやり遂げたことを、努力を褒めてほしいという、幼い期待に目を輝かせていた。不覚にも千歳はたじろいだ。
雪見の顔を正視できずに目が泳ぐ。格好つけ程度にざっと編成を確認した。
「……い、いいんじゃねぇの?」
「ありがとうございます」
雪見は折り目正しく一礼した。執事を彷彿とさせるような丁寧な仕草で、設営完了した舞台を手で指し示す。
「さあ、どうぞ練習を」
と言われても、素直に始められる千歳ではない。見かねた部長の響が部員達に席につくよう指示を出す。それでようやく千歳含む部員達は、気まずいながらも演奏準備を始めた。
雪見が用意したファーストヴァイオリンの席に座って、雪見がセットしたパート譜を広げる。空いている時間に揃えたのだろう。楽譜は演目順に並べられていた。
「完敗ですね」
真後ろの席に座った玲一が囁いた。
そんなこと、言われなくても自分が一番よくわかっている。歳下に、しかも侮っていたオジョウサマにしてやられた屈辱もあって千歳は「うっせ」と悪態をついた。
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