フォーリンラブ

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フォーリンラブ

「要するにソリストとコンマスの違いだな」  千歳は譜面台に弓を置いた。左手にヴァイオリンを抱えたまま、床に胡座をかく。雪見もならって床に正座した。 「同じヴァイオリニストでは?」 「役目が全然違ェよ。ソリストは花形、主役だ。一人で六十人近いオーケストラの連中と張り合って協奏曲コンチェルトやんだ。オケに喰うか食われるかって時にお上品に演奏はできねーって」  千歳は弦を指で弾いた。 「反対にコンマスはオケ全体のこと考えながら弾いてっから、まあ自由には弾けねェな。ボーイングだって全員揃えなきゃなんねェし、出だしとかのタイミングもある」  意識せずに見ていたが、言われてみれば合奏の時、ヴァイオリンの弓は全員、上下の向きもタイミングも含めて同じ動きをしていた。事前にボーイングを合わせていたのだろう。素人の雪見には考えもしなかったことだった。 「オケは団体戦だ。個々の演奏技術が高くても調和がなきゃただの騒音。六十人もいる演奏者全員が好き勝手に弾いたら曲が成り立たなくなる。だからまとめ役が必要なんだよ。本番直前に指揮者がぶっ倒れて代役が見つかんなかったら、コンマスが代わりに指揮すんだぜ」  雪見は目をしばたいた。千歳が指揮棒を振る姿を思い描くことができなかった。ヴァイオリンを手放す千歳を、というべきか。だって、先日のリハーサルの時も、今もこんなに練習しているのに。 「秋本さんが本番で弾けなくなるかもしれない、ということですか?」 「さすがに指揮台に登りはしねーけど、ヴァイオリン弾きながら指示出すことになんだろうな。必然的に俺は途中音抜けすっかもしんねぇけど、サブパートリーダーもいるし全体には支障ねェよ」  あっけらかんと言う千歳は割り切っているようだった。 「でも、ヴァイオリン奏者として頑張っているのに」 「全員弾けなくなるよかマシだろ」  雪見はあぜんとした。  絵画とは違って音楽のような無形文化は本番が全てだ。だからこそ、たった一回の本番で最高の演奏をするために、各々力を尽くしているのではないのか。自分の怪我や病気ならばまだしも、他人の事情で『本番』を捨てなければならないなんて、にわかには信じがたいことだった。それまで重ねてきた努力を自ら捨て去るようなものではないか。 「ンなマジで考えんな。滅多にねェよ、コンマスが指揮代役なんて。ウチは指揮科専攻生もいるし、音楽科教師なら指揮くらいなんとかできる」  千歳は部屋にある時計を見上げた。 「で、約束の時間まであと五分なんだけど?」 「すみません。練習の邪魔をしてしまって」 「いや、俺は別にいいけど、おめーは? スケッチはできたんか」  実のところほとんどできていない。スケッチ帳はほぼ白紙。しかし、雪見の頭の中では絵のイメージが固まりつつある。 「おかげ様で、なんとかできそうです」 「ん」  千歳は頷き、腰を上げた。譜面台の弓を手に取った千歳に、雪見は慌てて頼んだ。 「もう一回弾いていただけませんか。先ほどのラロ。一楽章だけでも」 「『G線上のアリア』の方がいいんじゃねーの?」 「ラロの方がいいです」  はっきりと言う雪見に、千歳は胡乱な眼差しを向けた。 「そんなに好きなもんかねェ」 「はい」  雪見は笑顔で答えた。見栄や意地を張っているわけでも、ましてや嘘でもない。ラロ作曲の『スペイン交響曲』が聴きたかった。 「今日、好きになりました」
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