千歳の秘密

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千歳の秘密

 部屋から出た時、既に椿と柚子と百合の姿がなかった。それぞれの自宅に帰ったらしい。真弓にぼこぼこされた百合は病院に行くと喚いたらしいが、そんな大きな怪我とは考えられない。せいぜい自宅療養だろう。後でお見舞いのメールを送ろうと雪見は思った。  残った継母四人と、千歳を交えての晩餐。用意したのはいつも通り椎奈だった。  祝事でもないのに食卓に赤飯が並んでいたのは不思議ではあったが、沈痛な面持ちでお赤飯を盛ったお茶碗を差し出す椎奈には訊けなかった。真弓は眉間にシワを寄せ、桜は赤飯と千歳を交互に見ては深いため息をつき、菫は木刀片手に終始千歳の背後に立っていた。  異様な状況にも慣れたのか、もはやツッコむ気力もわかないのか、千歳は振り向き菫に訊ねた。 「食べないんすか」 「ソコノ煮物ヲモラオウカ」  小鉢の煮物を千歳から受け取り菫はお赤飯のおにぎりと一緒に食べた。なんだかんだで親しくなっていた。  親密度が上昇していたのは、菫に限ったことではなかった。ヴァイオリンという同じ楽器の奏者なので真弓と千歳の会話は弾んでいた。桜も以前の無礼を詫びつつ会話に入っていたし、椎奈も椎奈で千歳が「この漬物自家製っすか」と訊ねた途端に機嫌を良くした。  意外にも和やかな晩餐を終えて、千歳はあっさり帰っていった。車での送迎は「面倒くせえ」の一言で突っぱねて、電車で。 「今日はありがとうございました。お気をつけてお帰りください」 「おー」  千歳は覇気のない返事をして、片手を上げた。そのまま振り向くことなく駅の方へ。背負ったヴァイオリンケースが小さくなっていくのを、雪見は見送りマンションに戻った。 「そこに座りなさい」  待ち構えていた真弓が厳かに告げる。雪見はリビングのソファーに座った。その向かいに真弓が腰を下ろす。 「どこまで進んだの?」 「スケッチは十分です。あとはイメージを固めて絵の構図を」 「絵のことじゃないわ。あの男とはどこまでーー手をつないでなんかないわよね?」 「まさか、」  否定しようとした雪見の脳裏に先日の一件がよぎった。バイト上がりの千歳を呼び止めて駅前で少し話をした。初めてまともに言葉を交わしたあの時。彼の手がいかに素晴らしいかを訴えたような気がする。  口を噤んだ雪見に、真弓は唇をわななかせた。 「……つないだの?」  けたたましい音。台所からだ。反射的に目を向けると、洗い物をしていた椎奈が顔を真っ青にしてこちらを見ていた。 「嘘でしょう」 「いえ、あの手に触りはしましたが、つないだわけでは」 「なん、てこと……っ!」  洗いかけの鍋を放り出し、椎奈は額に手を当てた。 「なりゆきで手を掴んでしまっただけです!」  しげしげと眺めたり揉んだりもしたがそれもなりゆきだ。他意はない。 「そうそう、秋本さんのヴァイオリンをじっくり見せていただきました。珍しくて、すごく綺麗でした。黒いヴァイオリンなんて私、初めてです」 「黒いヴァイオリン?」  目論見は成功。専門のヴァイオリンに話題を移すと、真弓が食いついた。 「サイレントヴァイオリンとかエレキのではなくて?」 「オールドヴァイオリンです。木目が黒くて、ニスも暗いのを使っているそうです。真弓さんはご覧になったことがありますか?」  真弓は首を横に振った。 「製作者は誰?」 「フリーデブルクさんです」 「ああ、そういうことね」  千歳曰く「あまり有名な職人ではない」のだが、さすがヴァイオリニストだけあって、真弓は府に落ちたようだ。 「ご存知なのですか?」 「多少ね。ガダニーニの前に使っていたヴァイオリンがフリーデブルクよ」  真弓が今愛用しているヴァイオリンは成政からのプレゼントだ。かのストラディバリウスに次ぐ名職人のオールドヴァイオリンで、お値段も相当。何しろ歴史的な文化遺産でもあるのだ。まずもって成政がどうやって貴重なヴァイオリンを入手したのかがわからない。 「高校生のくせにいいヴァイオリン使ってるじゃない」  普段、ガダニーニを弾いている真弓に言われるのは千歳も心外だろうが。 「……ねえ、ヴァイオリンを隅から隅まで見せてもらったの?」 「いいえ、表面だけですけど」  真弓の口が弧を描いた。細めた目が輝く。獲物をいたぶる猫を彷彿とさせる表情だった。 「じゃあ今度、裏も見せてもらいなさい。あるとしたら背板でしょうね」 「裏に何があるんですか?」 「フリーデブルクって、変人なのよね。腕はいいのだけど職人として活躍していた期間は短いし、黒いヴァイオリンとか、異様に明るいヴァイオリンとか、音に影響しない範囲で好き勝手やっては、異端児扱いされてたそうよ」  真弓は自信たっぷりに断言した。 「裏まで見せなかったのが証拠よ。絶対に何かやっているわ」
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