たまごドーナツ

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たまごドーナツ

 構図、下絵、完成までに制作スケジューリング、その他文化祭準備、モデル捻出のためのアルバイト、そして忘れてはいけない学生の本分である勉強。一つ一つの課題を解決し、夏休みを迎える前にはほぼ全て完遂の目処が立った。  制作にあたってF型十五号のキャンバスを用意した。市販のものではなく、雪見が木枠を組み立てて麻の画布を張った手作りのキャンバスだ。手間がかかるが好みの張り具合に調節できるので、もっぱら自分で張るようにしている。  満を辞して制作開始。まずは大きくあたりを作って輪郭を描く。細部は千歳の都合を確認しつつ描くーー予定だったのだが、管弦楽部の厚意により練習時間なら自由に見学していいとの許可を得たので、雪見は毎日のように黎陵高校に通うことになった。  通い出して三日目で雪見用の下駄箱が用意され、一週間後には都度自宅から運ばなくて済むよう学校の楽器庫にイーゼルを置かせてもらえるようになり、二週間目を迎える頃には、雪見がやってきた時点で床に敷く新聞紙やらパレット台やら、絵具とキャンバス以外の描画に必要な道具がスタンバイされるようになっていた。 「おめー、意外と順応性高ェのな」  昼休憩時、空き教室でパンをかじっていた千歳が呆れたように言う。が、これは自分がどうこうした結果ではなく純然たる厚意だと雪見は認識している。 「皆さん親切です」  雪見はしみじみと人の優しさを噛みしめた。 「他校の生徒で音楽科でもない私をあたたかく迎えてくださった上にこんなに協力してくださり、さらには文化祭にも来てくださると……」  女子校ということもあり、栄光女子学院の文化祭はチケットがないと校内に立ち入ることすらできない。栄光女子学院生が申請した数だけ入場券が配られるシステムになっている。過去に入場券がネットオークションで高値で取り引きされたことから管理も厳しく、入場券を親戚や友人に渡す際には自分の名前、クラスと番号を記入しなければ無効になる。  ともすれば堅苦しい文化祭になりそうだが、私立のお嬢様学校なだけあって、外部から著名人を招いたりとイベントは充実している。毎年最高来場者数を更新しているほど人気の文化祭だった。 「入場チケットを皆様の分ご用意しなくては」 「目ェ覚ませ。間違いなくあいつらはそれ目当てだ」 「もちろん秋本さんの分もご用意いたします」 「いらねーよ」  千歳は小さくなったチキンカツパンを口の中に放り込んだ。炭酸飲料水で流し込む。 「ご覧にならないのですか。秋本さんの絵が飾られますよ?」 「阿呆くせ。毎日鏡で見てるもんをなんでわざわざ見に……って待て」  千歳は顔を引きつらせた。 「俺の絵が晒しもんになんの? その文化祭で?」 「一番いい場所に展示しますね」 「ハアッ!?  聞いてねェぞンなこと」  何を今更。雪見は目を瞬いた。 「最初にお話させていただいた時にご説明しませんでしたか? 文化祭で掲示するための絵です」  千歳の目が泳ぐ。そこで知らないと言い張らず「……聞いた、な」と素直に認めるのは、彼の少なくない美点の一つだ。 「ま、まあどーせ絵だろ。俺の名前が載るわけでもねェし」 「肖像画ですから、お知り合いならたぶん秋本さんだとおわかりになるかと」  千歳は固まった。 「……そんなに似てんの?」 「写実画ですから」 「いやだっておめー、美術科じゃ」 「専攻学科ではありませんが、絵画に関しては一通り習っております。これでも都内のコンクールに入賞したこともあるんですよ」  白羽家に引き取られてすぐに、絵の教師を呼んでもらった。雪見が熱心だったこともあり、中学校卒業までに鉛筆、クロッキー、フレスコ、水彩とあらゆる画法の基礎を教わった。中でも油彩は雪見がもっとも得意とする画法だ。コンクール入賞は無論、区が定期的に発行している区民だよりの表紙を描いたこともある。  胸を張る雪見とは対照的に千歳は肩を落とした。 「…………なんでンな奴が俺の絵を描きたがるんだよ」 「それはもちろん、秋本さんが魅力的だからです」  ちょうどペットボトルの炭酸飲料水を口にしていた千歳が大きく咳き込んだ。咽せたらしい。雪見は慌ててハンカチを取り出した。 「大丈夫ですか!?」 「気持ち悪ィこと、言うからだろーが!」  吹き出しこそしなかったが、千歳は何度か咳をしてようやく落ち着いた。 「秋本さんは素敵です」 「だからそーいう、」 「髪は変に手を入れていませんよね。カラスの濡れ羽色は日本人然としていて、私のような癖っ毛には羨ましい限りです。細い眉は形もさることながら、ちょっときつめの相貌と相まって鋭くて表情豊かです。きっと体力作りもなさっているのでしょう。細身ですけど引き締まった身体には黒シャツとスラックスが映えると思います。大きい手は男性らしいです。長い指は演奏者の代名詞ですし、ヴァイオリン弾きにはたまらなく羨ましいものでしょう。あと私が一番好きなのは秋本さんがた」 「やめろ。たまごドーナツやるから!」  千歳に小袋を押し付けられる。学校の近くにあるパン屋の裏メニューと聞いている。 「ご納得いただけましたでしょうか」 「おめーがものすごく個性的な感性の持ち主だっつーことはよくわかった」 「お褒めに預かり恐縮です」 「褒めてねェ」  ありがたく雪見がたまごドーナツをいただいていると、副部長が千歳に声を掛けた。黒いフルートのケースを下げた女子生徒で、勝気な瞳が印象的だった。 「夏合宿の参加可否なんだけど」 「弦楽器は全員参加って申込書も渡しただろ?」  副部長は「違うって」と手を横に振った。 「あんたの嫁はどーするのかってこと」 「は?」 「他校でも承諾書さえあれば参加できるんだってさ。ほら、新婚旅行の予行にもピッタリじゃん」 「バァカ! 冗談も大概にしろ!」  雪見は目を丸くした。 「秋本さん、既にご結婚されていたのですか?」
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