たまごドーナツ

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「ンなわけねーだろ! てめーも否定しろ、全力で否定しろ!」  千歳の結婚を何故自分が否定しなければならないのだろう。首を傾げる雪見に、副部長は盛大に笑った。 「まあ冗談はさておき、八月の最終週に長野に行くの。三日間籠もって練習するんだけど、伊藤さんもどうかな? 好きなだけ絵描けるし、夜は花火もやるよ」  大変魅力的でありがたいお話だが、雪見は丁重にお断りした。 「絵の追い込みもありますし、新学期前に勉強もしないといけないので」  夏休み明け草々に実力試験がある。夏休み期間中に勉強を怠っていないかを確認するためのテストだが、かといって気は抜けない。 「えー……残念。管楽のみんなも伊藤さんと話したがっているのに」 「面白がってるの間違いだろーが」  すかさず副部長が千歳の足を蹴った。そこそこ痛かったようだ。千歳は小さく呻いた。 「成績が落ちてしまうと部活を辞めて、家庭教師を雇うことになってしまいますので」  雪見としては文化祭の後も部活は続けたい。勉強も家庭教師も別段嫌ではないが、その費用を出すのは白羽家だ。中間試験も見据えつつ勉強はしっかりやっておきたかった。 「家庭教師? やっぱお嬢様は違うねー」 「ただでさえ塾にも通わせていただいているのに、家庭教師ともなると費用はかなりかかります。さすがに忍びないので」  ペットボトルの炭酸飲料水を飲み干した千歳が口をへの字にした。 「『いただく』ねェ……」  副部長が音楽室に戻り、千歳はしばらく窓の外を眺めていた。が、意を決したように雪見に顔を向けた。 「前から思ってたんだけど、なんで苗字が『伊藤』なんだ?」 「伊藤は私の母の姓です。母は白羽成政様とは結婚していないので、姓が違います」  千歳は眉を微かに寄せて「成政『様』」と反復した。 「でも認知はしていただいています。こうして学校にも通わせていただいてますし、絵も好きなだけ描いてますし」 「当たり前だろ」  険のある声音で千歳は言い捨てた。 「のっぴきなんねェ事情があるならまだしも自分のガキは自分で育てんのが普通だろ。七人も愛人がいたり、父親を様付けとか、変だとは思わねーのかよ」 「父と母のことを悪く言わないでください」  思わず強い口調で言ってしまった。千歳は鼻を鳴らした。 「ホントのことじゃねーか」 「たしかに普通のご家庭とは少し違いますが、父も母達も立派な方です」 「そりゃあ父親は一財閥を築いたスゲー社会人だろうさ。継母もヴァイオリニストやらSPやらスゲー面子が揃ってんな。でも、親としてはどーなんだよ」  雪見は口を噤んだ。  父が与えてくれる何一つ不自由ない生活。教育は無論、望めば絵具も貴重な絵画も手に入る恵まれた環境。過剰なまでに自分のことを気にかけてくれる継母達。  でもそれは雪見が白羽家の後継者であることが前提だった。雪見が不適格と断じられた時点で剥奪される、条件付きの愛情だった。 「どうなのでしょう」  雪見はしまりのない笑みを浮かべた。 「私にはわかりません。普通のご家庭がどういうものかを知りませんから」
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