マフィン

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マフィン

 万年筆売り場は観光客と思しき人で賑わっていた。平日の夕方よりも人が多い。お盆の時期だからこそ訪れる客もいるのだろう。いつもとは若干雰囲気の異なる店内を一周したが、千歳の姿は見当たらない。  当然だ。千歳だって帰省しているのだろう。お盆の時期に一人でいるのは自分くらいだ。 「なんか用」  雪見は飛び上がりそうになった。 「へあ! あああ秋本さん!」 「ウッセー」  千歳は眉を寄せた。制服のエプロンは着けていないが、黒のスラックスに白いシャツ姿だった。 「で、万年筆でも買いに来たんか」 「いいえ、今日は買い物ついでに立ち寄っただけで」 「買い物?」千歳はあからさまに怪訝な顔をした「ついでに来るような所か、ここ」 「秋本さんはこれからお仕事ですか」  雪見は強引に話題を変えた。万年筆は眺めるだけでも楽しいのだが、興味のない千歳に説明しても納得してくれないだろう。 「今日は昼まで。昼飯食って帰る」 「美味しいお店がたくさんありますものね。お店はお決まりですか」 「昼飯にウン千円も掛けられるかバァカ。駅前のコンビニだよ」  踵を返した千歳を、雪見は呼び止めた。紙袋を掲げて見せる。 「もしよろしければいかがですか。お腹の足しにはなるかと」  千歳は胡乱な目で紙袋を覗き込む。ラッピングしたマフィンとタッパーに入れたハンバーグ。 「微妙な組み合わせだな。なんで俺に?」 「先日のたまごドーナツのお礼とお考えください」  同時に思い起こされる件の口論。自分で蒸し返していては世話ない。千歳も同じことを思ったのだろう。気まずげに頭をがしがしと掻いた。  店内でずっと喋っているのも気が引けたので、駅前に場所を移した。いつぞやモデルの交渉をした時と同じ場所だった。  道の往来での飲み食いに全く抵抗がない千歳は、雪見の見ている前でハンバーグ三つを平らげた。コンビニで購入した麦茶をがぶ飲みし、マフィンも二つ食べて「あっつい」とぼやく。 「暑いのは苦手ですか?」 「この気温じゃ苦手も得意もねェだろ」  たしかに陽炎も見えそうほど日差しも強い。千歳は喉を鳴らして麦茶を飲む。 「ンで? 何があったんだよ」  千歳は空になったタッパーの蓋を指で叩いた。 「ご馳走さん。うまかった。でもコレ、おめーが作ったんだろ? 俺に食わせるためだとは思えねェんだけど。仮にそうだとしても、あのオバサン達が黙ってるはずがねェ」  伊達に被害を受けていない。千歳は継母の習性をよく理解していた。 「秋本さんのおっしゃる通りだった、ということです」  雪見は肩を落とした。決して悪い父や継母ではない。いわゆる毒親と呼ばれるような類では決してない。だが、父親や母親である前に優先すべきことがあるだけだ。それを寂しいと感じる自分が幼いのだ。 「私が未熟なのがいけないのです」 「意味わかんねー」  千歳は飲み干したペットボトルのビニールを剥がした。 「この前のことは悪かったよ。他人ン家の事情に口出しするなんざ野暮だった。おめーが怒るのも無理はねェ」  ビニールは燃えるゴミへ。ペットボトルは資源回収へ。後片付けを済ませた千歳は大股で雪見の所に戻った。 「俺がムカついてんのは、おめーの態度だ。卑屈過ぎなんだよ。言いたいことがあるなら言えばいいだろ。おめーがはっきり言わねェから、あのオバサン達が勘違いして暴走すんだよ。いい加減気づけ」  千歳はこれ見よがしにため息をついた。 「絵のモデル頼む時は他人の迷惑お構いなしのくせに、なんで今さら及び腰になンだよ。こっちはその気になってんだから、てめーが最後まで突き進まなきゃ困るだろーが。いつまでもすまなそうな顔で音楽室の隅にいんじゃねェ。もっと胸を張れ、胸を」 「はい。すみま」  せん、と頭を下げかけて、雪見は自分がまたしても卑屈な態度を取っていることに気づいた。  我慢しているつもりはなかった。  白羽家に引き取られて、雪見は何不自由ない生活を送っている。毎日ご飯が食べられて、学校にも通えて、好きな絵も描ける。そんな毎日が、当たり前だと思うことが怖かった。今が特別なのだと言い聞かせなければ、いざ取り上げられた時に立ち直れなくなりそうで。  黙り込んだ雪見に千歳は舌打ちした。 「用はもう済んだのか」 「え?」 「買い物、終わったのか?」 「あ、はい。終わりました」  そもそも買い物の予定なんてない。千歳に会うための口実だ。 「俺はこれから楽器屋行くんだけど」千歳はどこか不貞腐れたように言った「おめーも来るか?」
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