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継母の秘密
「楽器屋」と言っていたので、楽器全般を扱う店だと思いきや、千歳が向かったのは弦楽器専門店だった。足を踏み入れるなり、雪見は歓声をあげた。ガラスケース内に整然と並べられたヴァイオリン。店内奥まで続くヴァイオリンの列は壮観の一言に尽きる。
「結構面白いだろ?」
「すごいです。こんなにたくさん……」
雪見は店内を見回した。奥に進むにつれてヴィオラ、チェロと大きな弦楽器が顔を出す。どれも飴色の美しい楽器だった。
「今、千歳さんがお使いになっているヴァイオリンもこちらでご購入されたのですか?」
「いや、あれは別」
千歳曰く「親戚のツテ」で紹介された店で黒いヴァイオリンを購入したらしい。
「メンテとかは近いココで頼んでる。弦とかも全部揃ってっから」
指差した先にあるのは雪見の胸元ほどの高さの棚だった。小さな引き出しがたくさんあり、一つ一つにメーカーのマークと商品名が書かれていた。
「これ全部ヴァイオリン用の弦ですか?」
「ガット弦とかナイロン弦とか色々あんだよ。メーカーによって全然音が違ェし」
「お値段もずいぶん違うのですねー」
下は数百円、上は八千円と大きく差がある。
「秋本さんはいつもどの弦をお使いなのですか。他の方とは違いますよね?」
「へえ……おめー、違いがわかんの?」
「弦の太さもさることながら音が違いますもの。部長さんと綾瀬さんは同じ弦ですよね」
「『ドミナント』な。扱いやすいし、音も安定してる。定番中の定番弦。ヴァイオリン専攻生以外の連中は安い弦使ってるから音の差は歴然だな」
千歳は右端の引き出しを指差した。
「俺はもっぱらコレ」
「ほー、エバピ、ラ?」
「『エヴァピラッツィ』」
筆記体で書かれた商品名を千歳はよどみなく読み上げた。
「スチール弦の『ザイエックス』も好きなんだけど、音がデカ過ぎてエレキギターみてェな感じになんだよなァ」
雪見は貼られた値札シールを凝視した。
「あの……秋本さん」
「ん?」
「これ、四本揃えると一万二千円はしますよね」
「するな」
「ヴァイオリンの弦って三ヶ月に一度くらいの頻度で交換しますよね」
「まあ人によりけりだけど、練習やり過ぎると一ヶ月もたねェこともあんな」
ということは、だ。定番の弦を使えば七千円ちょっとで済むところを、千歳は変にこだわっているせいで一万二千円も費用をかけていることになる。
「ンだよ。言っとくけどな、ピラストロの『オリーブ』なんかガット弦だから二万くらいすんだぞ」
「弘法筆を選ばず」
「俺は選ぶんだよ、悪ィか」
千歳は鼻を鳴らした。
「だいたい、おめー音痴のくせになんで耳だけはいいんだよ」
「たしかにそうですけど」
言い掛けて雪見は首をひねった。
「待ってください。どうして私が歌が不得手だということを秋本さんが知っているんですか」
小学校の音楽の授業でクラスメイトに笑われてから(そして継母が笑った生徒の家庭に報復してから)極力人前では歌わないようにしている。自分の壊滅的な歌の下手さは自覚している。リコーダーなどの器楽はさておき、とにかく音程が悪い。真弓が矯正を試みたが鍛えられたのはリズム感だけで、音程改善は断念せざるを得なかった程だ。
「ンなもん、一回聞きゃあわかる」
「いつですか? 私、歌った覚えがありません。そんな公害レベルの迷惑行為を一体いつしてしまったのでしょう」
「自分の音痴をよくそこまで悪く言えるな。いつも何もおめー、」
中途半端な所で千歳は口を噤んだ。考え込むように視線を弦に落とす。
「秋本さん?」
「……忘れた」
言い捨てて千歳は『エヴァピラッツィ』の弦一組を取り出した。
「いちいち覚えるわけねーだろ、そんなもん」
「まさか。忘れられるような音痴ではないはずです」
食い下がる雪見。しかし千歳は頑として教えてはくれなかった。そのあとはずっと黙ったまま、駅まで足を運んだ。
納得できない。思い返しても心当たりが全くなかった。小学校から遠く離れた今、継母以外は誰も知らないであろう事実だ。気分が高揚している時も、周囲に誰もいない時でさえ、歌わないようにしているというのに。
「あのさ」
駅での別れ際に千歳はようやく口を開いた。
「家庭の事情も全然知らねェ俺が言うのもなんなんだけど、おめーが思ってるよりもずっと、あのオバサン達はおめーのこと大事に思ってるのはわかるわ」
何を根拠にそう言っているのか不明だが、千歳の言葉にはいやに実感がこもっていた。
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