成れの果て

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成れの果て

 菫と柚子に付き添ってもらって雪見は学校に向かう。駆けつけた展示教室前に顧問教師の立川と部長の彩子がいた。彩子は雪見の姿を認めるなり駆け寄った。 「伊藤さん、ごめんね。急に」 「いえ、それより絵は」  雪見の問いに彩子は目を伏せた。 「それが……スプリンクラーの真下にあったから」  おずおずと差し出された絵に、雪見は言葉を失った。  F型十五号のキャンバスに垂れる模様。黒と橙色や緑といったものが混ぜ合わせられた『ムンクの悲鳴』以上に不気味で気味の悪い色合い。元の絵の面影はどこにもなかった。 「……え?」  間の抜けた声が漏れた。  現実味がなかった。だってつい数時間前だ。ようやく仕上がった絵を運んで、教室に置いて、先輩と一緒に鍵を締めて出てーーほんの数時間前のことだ。なのに。  彩子がキャンバスを裏返した。作品票がついていた。題名と制作年、そして名前が見覚えのある字で書かれていた。 「これが、本当に……?」  二ヶ月以上かけて描きあげた肖像画の成れの果て。モデルの千歳にも、彼の同級生や後輩方にも協力してもらって、時間を割いてもらって、それでようやく完成した油彩画が、あっさりと失われた。到底信じ難かった。 「どうして」 「原因は不明です。ただ、火事でもないのにスプリンクラーが作動していたので、おそらく故障かと」  既に警備にも通報し、学長にも報告していると立川が説明した。文化祭の打ち合わせを終えて彩子が帰ろうとしたところ、不審な音がしたので展示教室を覗いてみたらーーという次第だったらしい。 「ごめん。私もパニクってとにかく絵を出さなきゃと思って」  立川と彩子の言葉は雪見の頭を素通りした。水に濡れたままの彩子を気遣う余裕すらなかった。  しかし雪見以上に衝撃を受けた人物がすぐそばにいた。柚子だ。先ほどからドロドロに溶けた雪見の絵を見下ろしたまま、微動だにしない。表情は「無」そのもの。哀しみや悔しさといった感情はおろか、状況判断する能力さえ、何もかもが削ぎ落とされたようだった。  が、不意に柚子が動き出した。緩慢な動作で菫の元に歩み寄り、静かな声音で訊ねる。 「ライターを、貸してくれないか」 「ん」  喫煙家でもないのに何故かライターをすんなりを差し出す菫。受け取った柚子はゾンビを彷彿とさせる覚束ない足取りで、教室の中へーー雪見達から距離を取った。  室内の散水は既に終わっていた。床一面が水浸し。柚子はぐるりと周囲を見回した。 「雪見、これもらうな」  手にしていた小瓶には見覚えがある。リンシード。乾性油。別名あまに油。つまり、油だ。 「いいですけど、なに、を」  問いかけた雪見の前で、柚子は小瓶の蓋を開けて、リンシードを頭から被った。そしておもむろにライターをーー 「何してるんですか!」  雪見と菫は柚子にしがみつき、羽交い締めにした。 「はなせ、離してくれえっ!」  腕の中でなおも暴れる柚子。二人がかりの拘束も振り払いそうな馬鹿力だった。 「やめてください、燃えちゃいますって!」 「落チ着ケ」 「燃えてしまえ! こんな無能な母親に存在する価値はない! いっそ燃やして灰にしてくれぇえええっ!」  滂沱の涙を流しつつ吠える柚子の首筋に、情け容赦のない菫の手刀が落とされる。一撃で柚子は昏倒。手から転がり落ちたライターを雪見は部屋の隅に蹴り飛ばした。 「ナイスです、菫さん」  菫は「ん」と短く返事して親指を立てた。
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