存在の美

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存在の美

 絵が無事に完成した礼とのことで部員全員にパウンドケーキを差し入れしたのが二週間ほど前。以来ぱったりと顔を出さなくなった手フェチの絵描き、もとい伊藤雪見。  いつもいた場所にいない、ある種の違和感がようやく薄れた頃に、今度は顧問の凛子経由で招待状が送られてきた。栄光女子学院高校の文化祭。ネットオークションで取引されたこともある、人気文化祭の入場券だ。豪快に束で送られてきたそれを、凛子は練習終了後に指揮台に置いた。一人二枚まで。持ち出す際は必ずリストに名前を書くことを厳命して、退室した。  片付けもそこそこに入場券に群がる部員達。大半は女子だが、男子も興味はあるようで何人かが入場券をもらっていた。  騒ぎを尻目に千歳は月に一度の弦の張り替えを始めた。ネックに近い外側の弦から順番に交換していく。 「で、結局あの子とはどうなんですか?」  入場券をもて遊びながら玲一が訊ねてきた。行動の早い奴だ。 「どうって……何もねえよ」  本当に何もなかった。油絵が完成した途端に、雪見は千歳と関わらなくなった。アルバイト先にも押しかけなくなった。 「手まで繋いでおいて何も?」 「意味深な言い方すんじゃねェ。大体、何があんだよ。ちょっと変なバイトだってだけじゃねェか」 「それにしてはずいぶんサービス良かったですね」 「ウッセ。なりゆきだ」  なんのことはない。元通りになった。ただそれだけのことなのに、千歳は釈然としないものを覚えた。あまりにもあからさまと言うべきか、潔過ぎやしないだろうか。余韻に浸る間すら雪見は待ってくれなかった。 「完成した絵、見せてもらったんでしょう? どうでしたか」  手が離せないのをいいことに、玲一は色々と詮索してくる。関係ないことだと噛みつこうとした千歳の脳裏に先日見た油彩画が蘇った。  正直言って、油絵と言ってもオジョウサマの嗜みだと千歳は高をくくっていた。所詮学校の、それも課題ですらない、ただの趣味。自分の似顔絵を描かれる程度の軽い気持ちで引き受けた。  それが間違いだと気づいたのは、完成した絵を目の当たりにした時だった。  写実画とはよく言ったものだ。まさにあれは写真だった。圧倒的なリアリティに制作者の思想が融合している分、写真よりも優れたものかもしれない。  平時の夢見がちな言動に反して、雪見は画家として対象を正確に捉えていた。千歳の三白眼も大きめの口も筋張った長い指も、ともすれば醜く映るものでさえも容赦なく描く。それでいて、絵全体から醸し出される迫力に、その存在に、美を感じさせるのだ。  技術は言うまでもない。ここ二ヶ月そばにいた雪見だからこそ見出だし描けた「秋本千歳」があった。  初めてその肖像画を見た時、自分が何を言ったのかさえ千歳は覚えていない。ただ自分が尊く偉大なものに関わったという実感が押し寄せた。 (俺はとんでもねェ奴のモデルになっちまった)  一介の音楽家志望には過ぎた待遇だった。光栄に思うよりも遥かに羞恥心の方が大きかった。千歳は打ちのめされた。美術と音楽、違う分野であろうとも同じ芸術だ。しかし対する真剣味がまるで違う。雪見の熱意と研鑽、魂を描く才能に比べたら、自分の演奏や積み重ねてきた練習などオママゴトだ。  挨拶もおざなりに雪見のマンションを出て、その足で学校に向かった。急き立てるような焦燥感と衝動が千歳を突き動かした。ヴァイオリンを弾きたいと思った。何も考えずに、ただ一心に。  誰もいない音楽室で、調弦さえもどかしくフリーデブルクを構えた。それからひたすらヴァイオリンをかき鳴らした。もっと正確に、もっと速く、もっと華麗に。  A線の弦が切れて千歳がようやく我に返った時、夜の十時を過ぎていた。 「先輩?」  弦を張る手を止めた千歳に、玲一が怪訝そうに声をかける。 「……不相応」 「は?」 「邪魔。用がそれだけなら帰れ」  理不尽にも八つ当たりを受けた玲一は顔をしかめて、しかしいつものことなので結局何も言わずに踵を返した。玲一の背中に千歳は声を掛けた。 「おい」 「何ですか。邪魔者は消えますよ」  若干の嫌味付きで振り返った玲一に、右手を差し出す。 「ん」 「自分で貰えばいいじゃないですか。なんで俺の」 「一人二枚までいいんだろ。つべこべ言うんじゃねェ」  玲一の手からひったくるようにして入場券を奪う。  あの絵が普通の教室に飾られる光景が、千歳には想像できなかった。栄光女子学院の美術科や創作文芸部がどれほどのレベルかは知らないが、雪見の描いた油彩画は明かに高校生のそれとは一線を画している。そんな絵と並べて見比べられる他の生徒達を、千歳は哀れだと思った。
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