コンサートマスター

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コンサートマスター

 車で送るという申し出を頑として拒否する千歳にならって、雪見も電車で帰宅することにした。柚子と菫はついていくと言ってきかなかったが、冤罪の負い目があるので最終的には引き下がった。  同じく帰路についているであろう学生やサラリーマンと思しき人の流れに乗る。ホームで電車を待つ間、雪見は千歳を見上げた。 「お久しぶりですね」 「ン? ああ、そうだな」  二週間振りだ。夏休み期間は連日顔を合わせていたので、短期間でもずっと会っていないような気になるのだろう。 「管弦楽部の皆様はお元気ですか?」 「病気してる奴はいねェな」  千歳は胡乱な目で雪見を見下ろした。 「おめーはどうなんだよ。あの絵描くために今まで頑張ってたんじゃねーの?」 「これでもショックは受けているのですが」 「見えねー」 「まあ、その、私よりもショックを受けた方がいまして」  柚子のように二日間寝込んだ継母はいないが、真弓は怒り狂って犯人探しに躍起になっているし、平静を装っている椎奈も昨日カレーにみりんと醤油を投入するという奇怪な失敗をしていた。 「落ち込んではいられません」  自分のことのように落ち込んでくれる継母達がいるから、雪見は前を向くことができる。絵が台無しになったのはたしかに悲しいが、嘆いてばかりいても仕方ない。  池袋駅方面行きの電車に乗り込む。夕方なので車内は混雑していた。椅子席の前に千歳と並んで立った。 「コンマス候補さ」  窓の方を向いていた千歳が唐突に呟いた。 「俺の他にもう一人いたんだよな。部長の響、あいつも候補だった。俺と実力は大して変わんねェし、真面目に部活やってんのは断然あいつの方だったから、まあ、何事もなけりゃあ響がコンマスになるはずだったんだよ」  雪見の脳裏に部長の大神響の顔が浮かんだ。千歳の席の隣に座っているヴァイオリニスト。千歳のために素早く譜めくりをする姿が印象的だった。演奏中は極力音を立てずに楽譜はめくらなくてはならない。その点、響は一番上手かった。 「でも俺らの上の代が、次の部長は弦楽器専攻生にやらせろとかわけわかんねェこと言い出したから、響が部長。で、俺がまんまとコンマスになった」 「でも部長だって立派なお役目では?」 「そりゃあコンマスと部長でどっちが偉いかと言えば部長だろーけどさ。コンマスは文字通り、オケを仕切るリーダーなワケ。七十人いてもたった一人にしか許されねェ席なんだよ。ヴァイオリニストとしては一度は座りてーポジションだ。それを……」  千歳はため息に似た深い息を吐いた。 「俺なんかに譲る羽目になって、内心じゃ面白くねェだろうな」 「大神さんがそんなことを」 「言わねェよ。当たり前だろ。俺だって訊けねーし。あいつがコンマスやりたいっつっても部長とコンマス兼任させるわけにもいかねェ。どうにもなんねェんだよ。コンクールにしたってそう、優勝は一人。残りは全員負けだ」  突き放したように言う千歳が一番、響のことを気にしているように見えた。 「つまり多かれ少なかれ、何かやってりゃ誰かに嫌な思いさせてんだよ」  ここに来てようやく、千歳が自分を励ましているのだと雪見は気づいた。 「どうしたらいいのでしょう」 「ンなのどーしようもねェだろ。腹括って最後までやるしかねェよ。間違っても勝手に諦めんな。途中で投げ出すくらいなら最初からやんなきゃいいことだ」
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